ボビー・バレンタインと広岡達朗 /マリーンズの内部抗争
95年、不振に喘ぐ千葉ロッテマリーンズに、名将広岡達朗がゼネラルマネージャー(GM)として就任します。日本初のGM制の導入で、かねてから日本の球界に必要だと広岡が提唱していたものでした。監督選びに取り掛かった広岡は、アメリカでテキサス・レンジャーズの監督経験があるボビー・バレンタインを招聘しました。これが日本プロ野球史上に残る内部抗争に発展します。
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その後、アメリカにメジャーリーグ視察などを行い、広島カープでコーチを務めると1976年にヤクルト・スワローズの監督に就任します。食事の管理や花札や麻雀を禁止したこと、練習中の私語の禁止など当時のプロ野球界では厳しすぎると言われた管理を徹底し、さらにシーズンオフに筋力トレーニングをやらせる初の試みは、選手から多くの反発を受けました。さらにプロ野球チームとしては初の海外キャンプを実施し、1978年にスワローズを優勝に導きます。次は低迷する西武ライオンズに、スワローズでの実績を買われて招聘されます。すぐにチームを優勝に導き日本一にすると、西武が常勝軍団になる基盤を築きあげました。
広岡は当時のプロ野球には珍しい、科学的アプローチを行う監督で、選手の反発を押し切ってウエイトトレーニングを持ち込みました。またシーズンオフには練習しないのが常識だった当時に、オフ中の体づくりを行わせています。またプロ野球選手の食事といえば、焼肉をビールでたらふく食べるのが当然だった時代に、栄養バランスを考えて野菜を多く摂取させました。他のチームからは「ウサギさんチーム」と揶揄され選手にも不評でしたが、広岡は食が体を作ると譲りませんでした。
こうした改革を次々と行った広岡への反発は多く、手を抜きたがる選手が出るため、徹底した管理を行いました。ポロポロになるまで練習させ、きっちり休息を取るように命じ、練習後に選手が遊びに行くのも禁止しました。特に投手の疲労には細心の注意を払い、先発ローテーションを日本に初めて持ち込みます。
このように広岡は日本のプロ野球を近代化させた功労者であり、セバ両リーグで優勝経験のある名将であり、球界きっての知恵者でした。その広岡が日本初のGMとして低迷する千葉ロッテマリーンズに入ったのですから、その期待は大きなものでした。
バレンタインは、メジャーでの経験を活かして、さまざまな趣向を凝らして選手のやる気を回復させようとします。練習は短時間で済ませ、疲労回復を重視し、選手の自主性を尊重しました。広岡はその様子に不安を覚え、さらなる練習を求めますが、バレンタインはグランドの中は任せてくれと聞き入れませんでした。広岡の目には、あまりにのんびりとした練習であり、これでは開幕に間に合わないと焦ります。しかしバレンタインは、あくまでも自分が決めたペースで練習を進めていきました。
そしてコーチや選手にも不安がありました。こんなに早く練習を切り上げていいものなのか?休んでいる時間の方が長くて勝てるのだろうか?特訓と呼べるべきものがなく、これまでに経験したことのない緩やかな練習に、コーチも選手もバレンタインに戸惑っていました。
バレンタインからすれば、チームは新体制に馴染んでおらず、短期間でチームが劇的に強くなるはずがありませんでした。バレンタインにもチームにも時間が必要で、自身が打ち出した方向性をコーチや選手に繰り返し説明していました。そしてバレンタインの言葉通りにチームは6月から上昇気流に乗りだします。
バレンタインからすれば頭ごなしに言われたことをやるだけの選手は、成長が止まってしまいます。自分の頭で考えて、自分で気づかなければ成長は望めないのです。だから選手にヒントを与えて、自分で考えるように仕向けていました。日本の夏は蒸し暑く、ただでさえ体力を消耗します。十分な休養をとらなければ、選手は力を出す前にバテてしまいます。広岡が勝手に選手を集めて練習させたのは、選手の休息を奪うことで、選手のパフォーマンスを落とすことになると激怒しました。
何よりバレンタインにとって野球は楽しいもので、ワクワクする毎日を過ごす場でした。しかし旧来のプロ野球と戦い抜いてきた広岡にはとって、野球は厳しく辛いもので、それに耐え抜く力があるからこそ多額の報酬やファンの賞賛を得ることができるものでした。両者の価値観は真っ向から対立し、広岡がグランドで選手に指導することに怒ったバレンタインは練習をボイコットするようになります。
シーズンを終えてマリーンズは2位でした。万年Bクラスと言われたこれまでと比べ、そして5位に終わった前年から比較しても好成績で、マリーンズの躍進が光りました。そしてこの年のオリックス・ブルーウェーブは強すぎました。阪神淡路大震災を受けて「がんばろうKOBE」を合言葉に、地元の大声援だけでなく日本中から支持を集めたブルーウェーブは独走を続け、気の緩みも中だるみもなく優勝まで疾走したのです。
特殊な立場に会ったブルーウェーブのことを考えればマリーンズは大健闘で、ファンは躍進に歓喜していました。しかし広岡は全く満足していませんでした。「監督の采配ミスで15勝は逃した。十分に優勝を狙えたのに残念だ」とコメントし、バレンタインの手腕が不足していたことを強調しました。またチームが2位になったことについては
バレンタインが「こんなはずじゃなかった」と泣きついてきたから「手助けしようか?」と言うと「頼む」と言うので日本式の特打や特守を導入した。チームは練習に飢えていたから効果があった。
と話し、チームの躍進はバレンタインによるものではなく、自身の手腕であることを説明していました。バレンタインはこの件について、事実ではないと強く反論しています。
重光オーナーは「監督を解雇しても構わないのか?」と尋ね、広岡が何も問題ないと答えると、バレンタインの解任が決まりました。後任の監督には直訴してきたコーチの1人、江尻亮に決まりました。こうしてバレンタインはわずか1年で解任されて日本を去ることになりました。
バレンタインがアメリカから呼び寄せ、シーズン半ばから不動の4番としてチームを牽引してきたフリオ・フランコは激怒し「ずっとBクラスだったチームが、新体制で2位になった。チームが次に何をやるべきかは明らかなのに、監督をクビにしてしまった」と語り、残留を希望する球団やファンを振り切ってアメリカに帰りました。
マリーンズはその後も低迷し、万年Bクラスと言われるチームに逆戻りしました。マリーンズが再びAクラスに入るのは2005年で、チームから強い要請を受けてバレンタインが監督に復帰した翌年でした。その年はマリーンズが優勝し、日本一に輝きました。バレンタインはこの時のインタビューで広岡に関して「日本プロ野球に招いてくれた恩人」と述べ、和解を示しました。
・越権行為を犯した
・結果を性急に求めすぎた
GMの仕事は監督と連携して、チームの環境作りや良い選手を発掘してチームに加えることです。監督の仕事は与えられた選手を使い、最高の結果を出すことです。広岡の行為は監督の仕事を侵害していました。バレンタインが反発するのも当然で、選手を指導するなら広岡は自分が監督を務めるべきでした。
また監督を新しくして、開幕した4月に結果を求めるのは、あまりにも性急すぎたと思います。もう少し我慢して様子を見守るべきだったと思いますし、そもそもGMが現場を混乱させるのは問題だと思います。監督を選んだら、現場を任せる度量が不足していたように感じました。
そもそも監督を選ぶときに、自分と真逆の考え方を持つ人物を選んだのが広岡の失敗だったようにも思います。GMとして監督選びは初めてだったので調査が不足していたのかもしれませんが、野球観の違いはじっくり話せばわかったように思います。また、私は広岡が日本の会社的な考えで、バレンタインを部下と思っていたように思います。広岡からすれば上司の命令は絶対なのに、自分の言うことを聞かないバレンタインに苛立ったのかもしれません。しかしアメリカでの野球経験しかないバレンタインにとって、広岡は絶対的な上司ではなくフロントの責任者に過ぎませんでした。両者の立場の認識にもズレがあったと思います。
ここではややバレンタイン寄りに書きましたが、バレンタインも万能の監督ではありません。ボストン・レッドソックス時代には、日本式のやり方を持ち込んで選手から総バッシングを受け、レッドソックス低迷の原因としてファンからも認識されていることも付け足したいと思います。
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広岡達朗とは
1932年に広島県呉市に生まれ、早稲田大学時代は「六大学野球の貴公子」と呼ばれる人気選手になります。プロでは読売ジャイアンツに入団し、球界を代表する選手になりました。しかし「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治とは仲が悪く、川上が現役の時も監督になってからも対立しています。最終的に川上と大喧嘩になり、それが原因で引退しました。その後、アメリカにメジャーリーグ視察などを行い、広島カープでコーチを務めると1976年にヤクルト・スワローズの監督に就任します。食事の管理や花札や麻雀を禁止したこと、練習中の私語の禁止など当時のプロ野球界では厳しすぎると言われた管理を徹底し、さらにシーズンオフに筋力トレーニングをやらせる初の試みは、選手から多くの反発を受けました。さらにプロ野球チームとしては初の海外キャンプを実施し、1978年にスワローズを優勝に導きます。次は低迷する西武ライオンズに、スワローズでの実績を買われて招聘されます。すぐにチームを優勝に導き日本一にすると、西武が常勝軍団になる基盤を築きあげました。
広岡は当時のプロ野球には珍しい、科学的アプローチを行う監督で、選手の反発を押し切ってウエイトトレーニングを持ち込みました。またシーズンオフには練習しないのが常識だった当時に、オフ中の体づくりを行わせています。またプロ野球選手の食事といえば、焼肉をビールでたらふく食べるのが当然だった時代に、栄養バランスを考えて野菜を多く摂取させました。他のチームからは「ウサギさんチーム」と揶揄され選手にも不評でしたが、広岡は食が体を作ると譲りませんでした。
こうした改革を次々と行った広岡への反発は多く、手を抜きたがる選手が出るため、徹底した管理を行いました。ポロポロになるまで練習させ、きっちり休息を取るように命じ、練習後に選手が遊びに行くのも禁止しました。特に投手の疲労には細心の注意を払い、先発ローテーションを日本に初めて持ち込みます。
このように広岡は日本のプロ野球を近代化させた功労者であり、セバ両リーグで優勝経験のある名将であり、球界きっての知恵者でした。その広岡が日本初のGMとして低迷する千葉ロッテマリーンズに入ったのですから、その期待は大きなものでした。
ボビー・バレンタインとの火種
バレンタインは広岡からチームの事情を詳しく聞いており、その情報を元にチームを見ました。広岡は、とにかく個々の選手が力不足なので、なんとか底上げして欲しいと言われましたが、実際に選手を見たバレンタインはそうは思えませんでした。個々の力量は素晴らしい選手が多いにも関わらず、その実力を発揮できていないように見えたのです。さらにチームとしての歯車が噛み合っておらず、広岡が言うような底上げより、選手のモチベーションと自信の回復が急務だと思いました。バレンタインは、メジャーでの経験を活かして、さまざまな趣向を凝らして選手のやる気を回復させようとします。練習は短時間で済ませ、疲労回復を重視し、選手の自主性を尊重しました。広岡はその様子に不安を覚え、さらなる練習を求めますが、バレンタインはグランドの中は任せてくれと聞き入れませんでした。広岡の目には、あまりにのんびりとした練習であり、これでは開幕に間に合わないと焦ります。しかしバレンタインは、あくまでも自分が決めたペースで練習を進めていきました。
そしてコーチや選手にも不安がありました。こんなに早く練習を切り上げていいものなのか?休んでいる時間の方が長くて勝てるのだろうか?特訓と呼べるべきものがなく、これまでに経験したことのない緩やかな練習に、コーチも選手もバレンタインに戸惑っていました。
開幕からの低迷
開幕からのマリーンズは負け続けます。4月は8勝4敗1分けの最下位の成績になり、広岡やコーチ陣の不安が現実になりました。広岡は改善を指示しますが、バレンタインははねつけました。6月にはチームが上昇するというバレンタインに、広岡は苛立ちを見せるようになります。広岡からすれば、このような緩い環境のまま6月に入れば、夏を乗り切ることができずに低迷したままシーズンを終えるように思えました。バレンタインからすれば、チームは新体制に馴染んでおらず、短期間でチームが劇的に強くなるはずがありませんでした。バレンタインにもチームにも時間が必要で、自身が打ち出した方向性をコーチや選手に繰り返し説明していました。そしてバレンタインの言葉通りにチームは6月から上昇気流に乗りだします。
コーチ達の造反
一部のコーチが広岡を訪ねて、バレンタインのやり方に不満をぶつけてました。練習時間が短く、負けても叱責せず、具体的な指示を出さずに自分で考えろと選手任せの態度をとるバレンタインのやり方では、チームが弱体化すると訴えたのです。広岡には全くの同感で、負けた日の翌日にバレンタインが練習をなしにすると、広岡が選手を集めて練習をさせました。バレンタインからすれば頭ごなしに言われたことをやるだけの選手は、成長が止まってしまいます。自分の頭で考えて、自分で気づかなければ成長は望めないのです。だから選手にヒントを与えて、自分で考えるように仕向けていました。日本の夏は蒸し暑く、ただでさえ体力を消耗します。十分な休養をとらなければ、選手は力を出す前にバテてしまいます。広岡が勝手に選手を集めて練習させたのは、選手の休息を奪うことで、選手のパフォーマンスを落とすことになると激怒しました。
何よりバレンタインにとって野球は楽しいもので、ワクワクする毎日を過ごす場でした。しかし旧来のプロ野球と戦い抜いてきた広岡にはとって、野球は厳しく辛いもので、それに耐え抜く力があるからこそ多額の報酬やファンの賞賛を得ることができるものでした。両者の価値観は真っ向から対立し、広岡がグランドで選手に指導することに怒ったバレンタインは練習をボイコットするようになります。
バレンタイン解任の噂
対立を隠すことなくぶつかり合う両者の姿は、マスコミの格好の餌食になりました。マリーンズファンはバレンタインを支持し、「広岡辞めろ」などの横断幕を貼るようになります。そしてバレンタイン解任の噂が出るようになり、マリーンズファンは好成績が続くマリーンズの現在に歓喜し、来年もバレンタインが指揮をとるのか不安に想う日々を過ごすことになります。シーズンを終えてマリーンズは2位でした。万年Bクラスと言われたこれまでと比べ、そして5位に終わった前年から比較しても好成績で、マリーンズの躍進が光りました。そしてこの年のオリックス・ブルーウェーブは強すぎました。阪神淡路大震災を受けて「がんばろうKOBE」を合言葉に、地元の大声援だけでなく日本中から支持を集めたブルーウェーブは独走を続け、気の緩みも中だるみもなく優勝まで疾走したのです。
特殊な立場に会ったブルーウェーブのことを考えればマリーンズは大健闘で、ファンは躍進に歓喜していました。しかし広岡は全く満足していませんでした。「監督の采配ミスで15勝は逃した。十分に優勝を狙えたのに残念だ」とコメントし、バレンタインの手腕が不足していたことを強調しました。またチームが2位になったことについては
バレンタインが「こんなはずじゃなかった」と泣きついてきたから「手助けしようか?」と言うと「頼む」と言うので日本式の特打や特守を導入した。チームは練習に飢えていたから効果があった。
と話し、チームの躍進はバレンタインによるものではなく、自身の手腕であることを説明していました。バレンタインはこの件について、事実ではないと強く反論しています。
バレンタインの解任
契約を残してバレンタインは解任されました。広岡によると3人のコーチが、広岡に直訴してきたそうです。「選手が不振に陥れば、それに対処するのがコーチの仕事。しかしバレンタイン監督は疲労が原因だとして休ませるばかりで、コーチの仕事がない。この体制が続くなら自分たちは辞めたい」と言い、マリーンズのオーナー重光武雄に裁定を委ねたそうです。※ロッテ創業者の重光武雄 |
重光オーナーは「監督を解雇しても構わないのか?」と尋ね、広岡が何も問題ないと答えると、バレンタインの解任が決まりました。後任の監督には直訴してきたコーチの1人、江尻亮に決まりました。こうしてバレンタインはわずか1年で解任されて日本を去ることになりました。
※フリオ・フランコ |
バレンタインがアメリカから呼び寄せ、シーズン半ばから不動の4番としてチームを牽引してきたフリオ・フランコは激怒し「ずっとBクラスだったチームが、新体制で2位になった。チームが次に何をやるべきかは明らかなのに、監督をクビにしてしまった」と語り、残留を希望する球団やファンを振り切ってアメリカに帰りました。
その後のマリーンズ
96年は再び低迷し、一時期3位に浮上するも5位に終わりました。さらに2年連続二桁勝利を挙げた伊良部秀輝と、広岡の確執が勃発してしまいます。KOされた後に広岡から「打たれたのは闘争心がないからだ」という一言に伊良部は憤慨し、フロントへの不満を隠さなくなります。そしてメジャー移籍を表明した伊良部とトラブルが続き、広岡は球団からもファンからも厳しく糾弾されて辞任することが決まりました。日本初のGM制は、わずか2年で終わりを迎えてしまいます。マリーンズはその後も低迷し、万年Bクラスと言われるチームに逆戻りしました。マリーンズが再びAクラスに入るのは2005年で、チームから強い要請を受けてバレンタインが監督に復帰した翌年でした。その年はマリーンズが優勝し、日本一に輝きました。バレンタインはこの時のインタビューで広岡に関して「日本プロ野球に招いてくれた恩人」と述べ、和解を示しました。
何が悪かったのか
2人の確執の原因となった野球観の違いはどうしようもない問題で、これは仕方ないと思います。しかし騒動の原因は広岡にあると私は考えます。・越権行為を犯した
・結果を性急に求めすぎた
GMの仕事は監督と連携して、チームの環境作りや良い選手を発掘してチームに加えることです。監督の仕事は与えられた選手を使い、最高の結果を出すことです。広岡の行為は監督の仕事を侵害していました。バレンタインが反発するのも当然で、選手を指導するなら広岡は自分が監督を務めるべきでした。
また監督を新しくして、開幕した4月に結果を求めるのは、あまりにも性急すぎたと思います。もう少し我慢して様子を見守るべきだったと思いますし、そもそもGMが現場を混乱させるのは問題だと思います。監督を選んだら、現場を任せる度量が不足していたように感じました。
そもそも監督を選ぶときに、自分と真逆の考え方を持つ人物を選んだのが広岡の失敗だったようにも思います。GMとして監督選びは初めてだったので調査が不足していたのかもしれませんが、野球観の違いはじっくり話せばわかったように思います。また、私は広岡が日本の会社的な考えで、バレンタインを部下と思っていたように思います。広岡からすれば上司の命令は絶対なのに、自分の言うことを聞かないバレンタインに苛立ったのかもしれません。しかしアメリカでの野球経験しかないバレンタインにとって、広岡は絶対的な上司ではなくフロントの責任者に過ぎませんでした。両者の立場の認識にもズレがあったと思います。
もったいないコンビ
メジャーリーグに多くを学び、日本球界を改革してきた広岡と、メジャーでの経験豊富なバレンタインのコンビは、日本球界に大変動をもたらす可能性があったと思います。それが仲違いし、2人ともチームを離れるようになったのはマリーンズにとってだけでなく、日本球界にとっても損失でした。ここではややバレンタイン寄りに書きましたが、バレンタインも万能の監督ではありません。ボストン・レッドソックス時代には、日本式のやり方を持ち込んで選手から総バッシングを受け、レッドソックス低迷の原因としてファンからも認識されていることも付け足したいと思います。
まとめ
広岡とバレンタインの確執は、異文化の衝突や組織運営などさまざまな面から検証できると思います。しかし95年に沸き立ったマリーンズファンにとっては、なんとも苦い経験になってしまいました。このようなグランド外でのドタバタは、誰も望んでいないと思います。関連記事
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