バブル景気真っただ中の人々は幸せだったのか
バブル景気の頃の話がメディアでちょくちょく出てきますし、飲み屋でその頃の話が出ることもあります。しかしどうも現在語られている内容と、当時の記憶にギャップがある気がしてなりませんでした。先日も妹とバブル景気の頃の話していて「あの頃、お父さんは本当に楽しくなさそうだった。ただ疲れていた」と言っていて、確かにその通りだったと思いだしました。お金が余って使い道に困っていたバブル景気は、みんなが幸せだったような印象がありますが、実際にはそうでもなかったと思います。
それに関連して「一万円札を振りかざしてタクシーを止める人がいた」というのもあります。バブル景気を描いた映画にもこのような場面がありましたが、当時の主流はタクシー券です。中には金額を書き込まないで渡す人もいたので、万札なんかを見せられるよりもタクシー券の方が運転手にはおいしいのです。そもそも万札を振ったぐらいでタクシーが止まるはずがなく、こんな人がどれだけいたのかは疑問です。事実としては以下のようなものがあります。
東京を中心に地価が異常に高騰し、東京23区の地価の合計がアメリカ全土の地価の合計を上回りました。銀座では1坪が数十億円になり、それでも安いと言われたりしました。利益を誤魔化す企業はいつでもいますが、誤魔化しきれなかったみたいで、お金を捨てる人も出てきました。川崎市の竹やぶから1億3000万円が入ったカバンが発見され、数日後には9000万円が入ったバッグが発見され、大騒ぎになりました。
サラリーマンの給与は上昇し、年に3回のボーナスを受け取る会社も増えました。接待費が増えたため、一晩で数百万円を使う人も珍しくなくなりました。これは後述しますが、楽しんで大金を使っていた人ばかりではありませんでした。
急激な円高で日本の輸出企業は大打撃を受けます。政府が緊縮財政をやめて公共事業の拡大や、公定歩合の引き下げなどの金融緩和を矢継ぎ早に手を打っていくと、急激に土地などに資金が流れるようになりました。世界的に見ても、最も金持ち国だったアメリカが貧乏になったことがわかり、次なる投資先として日本が目立っていたのです。こうして世界的にも日本に資金が集まるようになりました。また86年に原油価格が急落することもあって、日本の輸出業界が低迷を脱し、さらにメディアが土地の優位性を繰り返し報じたことで土地に異常なほどの資金が投入されて地価が急上昇しました。
何より辛かったのは接待だそうで、これは誰にとっても辛かったそうですが、酒が飲めない父の苦しさは何倍にもなったようです。会社は急激な利益を上げているので、税金として大金を国に持っていかれます。そこで多くの企業が接待費として使うことを社員に命じました。父は毎月数百万円とか1千万円を超えるノルマを課せられ、それを使い切って領収書を提出しなくてはならないのです。
毎晩遅くまで働き、あちこちの取引先に電話をして接待を受けてくれるように依頼します。先方にしたって、何社からも接待の依頼があるのでウンザリしているのですが、なんとか頼み込んで接待の場を持ちます。寿司屋、焼き肉屋、料亭、キャバレーなどで接待し、ふらふらになりながら月末に領収書をかき集めて支店に送るのです。美味しいご飯もたまに食べるから美味しいのであって、毎日のように食べていたら嫌になります。たまに帰って来ると、「みそ汁と漬物でご飯が食べたい」と言っていました。
さらに自分が接待するだけではありません。業者さんからの接待も受けなくてはいけないのです。当時は建設ラッシュですから、業者が離れてしまうのは絶対に避けなくてはいけません。そのため飲みたくもない酒の席に出かけ、食べたくもない食事を食べなくてはなりませんでした。昼間は業務に忙殺され、夜は接待漬けになる生活を何年も送り続け、疲れ果てていました。妹の記憶では金曜の夜に「太陽にほえろ」を見ている時が、父が最も楽しそうにしていた時間だったようです。19時から食事をしながら「クイズダービー」を見て、19時30分から娘が「カックラキン大放送」を見ている間に風呂に入り、20時から「太陽にほえろ」を見るという流れの時だけ、父がニコニコしていたと妹は言っていました。父の給料はどんどん上がっていましたが、それだけの仕事をしているので当然と思う部分もあったようです。
きっと私の父のように、ノルマの領収書を集められない人が大量にいたので、なんとかしてお金を使おうとしていたのでしょう。似たような話は飲食店経営者からは、何度か聞きました。中には料理はいらないから金だけ払うという人もいたようで、領収書を集めるのにみんな必死だったのです。飲食店は儲かりましたが、みんなボロボロになるまで働いていたようです。
85年に某商社に入った人から聞いた話では、会社に泊まり込みも珍しくなく、かといって若い社員は接待に呼ばれることもなかったので、とにかく朝から晩まで仕事漬けだったと言っていました。給料は今では考えられないくらいもらっていたそうですが、使う時間がないのでお金を持っている実感はなかったそうです。女性とデートすると、トレンディドラマにかぶれている人もいて、高級店を指定されることもあってウンザリしたことも少なくないと言っていました。
ちなみにその人は、全くお金を使うことがないのも嫌になり、ベンツ190Eを購入しました。当時としては購入しやすいベンツですが、20代でベンツを買うというのは今の間隔からすると贅沢だと思います。しかし当時の190Eは「小ベンツ」とバカにされる対象だったので、嫌な想いも沢山したと言っていました。
投資目的ではなく、自分が住む家を買う人が多くいました。毎年のように地価が上がり、やがて都内では家を持てなくなると言われていたので、自分たちが住むために早めに家を買おうというのは当時の多くの人の心理でした。89年の東京郊外に、5000万円くらいでマンションを買った人は便利の良い場所に買えたわけではありません。通勤にも買い物にも不便な場所ですが、他では買えないからなくなく35年のローンで購入しました。
しかしバブルが弾けると、マンション価格は急落して売却しても2000万円くらいになってしまいます。しかもローンは大部分が残っていて、金利は7%などの高金利になっています。給与はぐんぐん下がり、売ることもできないマンションのローンを払うため、生活レベルを落としてギリギリのやりくりをすることになりました。特に投資でアブク銭を稼いだわけでもなく、上記のようにボロボロになるまで働いたサラリーマンが、自分たちが住むための家を買っただけなのに苦しい生活を強いられることになったのです。
私の母などは、バブル景気で世の中が浮かれていたというのはテレビの中の出来事と言っており、自分には何の恩恵もなかったと言っています。崩壊後にあれこれ語られたのは、自分も時代の中心近くにいたとアピールしたい虚栄心によるものも多く、あてにならない話が多く含まれています。バブル景気は日本の大きな転換期だったのですが、日本中が浮かれていたわけではなかったんですよ。
バブル景気の頃のエピソード
バブル景気のエピソードには、眉唾ものや当時のドラマのエピソードが真実として語り継がれているものが多くあります。例えばネットなどでよく見かける「毎朝タクシーで通勤していた」というものです。そういう人が一人もいなかったとは言いませんが、当時のタクシー事情を考えると怪しい話です。当時は利用者に対してタクシーが絶望的に不足していました。タクシーに乗りたいと思っても、タクシーが捕まらなかったのです。それに関連して「一万円札を振りかざしてタクシーを止める人がいた」というのもあります。バブル景気を描いた映画にもこのような場面がありましたが、当時の主流はタクシー券です。中には金額を書き込まないで渡す人もいたので、万札なんかを見せられるよりもタクシー券の方が運転手にはおいしいのです。そもそも万札を振ったぐらいでタクシーが止まるはずがなく、こんな人がどれだけいたのかは疑問です。事実としては以下のようなものがあります。
東京を中心に地価が異常に高騰し、東京23区の地価の合計がアメリカ全土の地価の合計を上回りました。銀座では1坪が数十億円になり、それでも安いと言われたりしました。利益を誤魔化す企業はいつでもいますが、誤魔化しきれなかったみたいで、お金を捨てる人も出てきました。川崎市の竹やぶから1億3000万円が入ったカバンが発見され、数日後には9000万円が入ったバッグが発見され、大騒ぎになりました。
※現金がみつかった竹やぶに集まる人々 |
サラリーマンの給与は上昇し、年に3回のボーナスを受け取る会社も増えました。接待費が増えたため、一晩で数百万円を使う人も珍しくなくなりました。これは後述しますが、楽しんで大金を使っていた人ばかりではありませんでした。
バブル景気とは
一般的にバブル景気は1986年から1991年頃までを指します。なぜ日本が急に金持ちになったかというと、これには複数の要因が絡んでいて簡単には説明できません。発端は85年のプラザ合意で、アメリカが赤字で首がまわらなくなったことが世界的に認知されたことに始まります。日本との貿易で赤字が拡大したアメリカは、円高ドル安にするための施策をプラザ合意でとりつけました。その結果、1ドル240円程度だったのが、1年後には150円程度になりました。急激な円高で日本の輸出企業は大打撃を受けます。政府が緊縮財政をやめて公共事業の拡大や、公定歩合の引き下げなどの金融緩和を矢継ぎ早に手を打っていくと、急激に土地などに資金が流れるようになりました。世界的に見ても、最も金持ち国だったアメリカが貧乏になったことがわかり、次なる投資先として日本が目立っていたのです。こうして世界的にも日本に資金が集まるようになりました。また86年に原油価格が急落することもあって、日本の輸出業界が低迷を脱し、さらにメディアが土地の優位性を繰り返し報じたことで土地に異常なほどの資金が投入されて地価が急上昇しました。
私の父の話
某中堅ゼネコンの長崎営業所の所長をしていた父は、80年代半ばから家に帰る回数が減りました。バブル景気の頃は建設業の仕事が飛躍的に増えたので、今でいうなら多くの企業がブラック企業になっていました。当時は土曜も出勤でしたが、帰って来るのが日曜日の昼頃というのも珍しくなく、平日はたびたび会社の近くのホテルに泊まっていました。何より辛かったのは接待だそうで、これは誰にとっても辛かったそうですが、酒が飲めない父の苦しさは何倍にもなったようです。会社は急激な利益を上げているので、税金として大金を国に持っていかれます。そこで多くの企業が接待費として使うことを社員に命じました。父は毎月数百万円とか1千万円を超えるノルマを課せられ、それを使い切って領収書を提出しなくてはならないのです。
※バブル期に竣工した東京都庁 |
毎晩遅くまで働き、あちこちの取引先に電話をして接待を受けてくれるように依頼します。先方にしたって、何社からも接待の依頼があるのでウンザリしているのですが、なんとか頼み込んで接待の場を持ちます。寿司屋、焼き肉屋、料亭、キャバレーなどで接待し、ふらふらになりながら月末に領収書をかき集めて支店に送るのです。美味しいご飯もたまに食べるから美味しいのであって、毎日のように食べていたら嫌になります。たまに帰って来ると、「みそ汁と漬物でご飯が食べたい」と言っていました。
さらに自分が接待するだけではありません。業者さんからの接待も受けなくてはいけないのです。当時は建設ラッシュですから、業者が離れてしまうのは絶対に避けなくてはいけません。そのため飲みたくもない酒の席に出かけ、食べたくもない食事を食べなくてはなりませんでした。昼間は業務に忙殺され、夜は接待漬けになる生活を何年も送り続け、疲れ果てていました。妹の記憶では金曜の夜に「太陽にほえろ」を見ている時が、父が最も楽しそうにしていた時間だったようです。19時から食事をしながら「クイズダービー」を見て、19時30分から娘が「カックラキン大放送」を見ている間に風呂に入り、20時から「太陽にほえろ」を見るという流れの時だけ、父がニコニコしていたと妹は言っていました。父の給料はどんどん上がっていましたが、それだけの仕事をしているので当然と思う部分もあったようです。
バブル景気の飲食店
都内で寿司屋に勤めていた人がいて、当時のことを酒の席で聞いたことがあります。とにかく予約が殺到していて、経費を使い切りたいサラリーマンから高価なものを出すようにいつも言われていたそうです。営業時間を過ぎても人がやって来て、断ろうにも怒り出すので仕方なく時間を延長することがよくあったそうです。とにかく忙しく、店を休もうものなら苦情がやってくる始末で、とにかく休みがとれなかったと言っていました。※バブル期にはティラミスが大人気でした。 |
きっと私の父のように、ノルマの領収書を集められない人が大量にいたので、なんとかしてお金を使おうとしていたのでしょう。似たような話は飲食店経営者からは、何度か聞きました。中には料理はいらないから金だけ払うという人もいたようで、領収書を集めるのにみんな必死だったのです。飲食店は儲かりましたが、みんなボロボロになるまで働いていたようです。
バブル景気の若手サラリーマン
私の父のように接待が重要な仕事になった管理職が、夜に接待に出かけていき、朝から酒臭い息をして使いものにならないので、仕事のしわ寄せが来ていました。そのため深夜残業が常態化している会社も多く、ただひたすら仕事に追われる人が多くいました。もちろん接待のおこぼれに与る人もいましたし、忘年会などでは豪華な食事とお酒を楽しむことができる人もいましたが、基本的に仕事に追われる人が多かったようです。85年に某商社に入った人から聞いた話では、会社に泊まり込みも珍しくなく、かといって若い社員は接待に呼ばれることもなかったので、とにかく朝から晩まで仕事漬けだったと言っていました。給料は今では考えられないくらいもらっていたそうですが、使う時間がないのでお金を持っている実感はなかったそうです。女性とデートすると、トレンディドラマにかぶれている人もいて、高級店を指定されることもあってウンザリしたことも少なくないと言っていました。
ちなみにその人は、全くお金を使うことがないのも嫌になり、ベンツ190Eを購入しました。当時としては購入しやすいベンツですが、20代でベンツを買うというのは今の間隔からすると贅沢だと思います。しかし当時の190Eは「小ベンツ」とバカにされる対象だったので、嫌な想いも沢山したと言っていました。
給料が高いなら良いではないか
どんなに大変な想いをしたと言っても、高い給料をもらっていたのだから良いではないか、今と比べたら恵まれていると言う人もいるでしょう。確かにその通りなのですが、人によってはその後に地獄を見ることになりました。特に住宅を買ってしまった人は大変です。投資目的ではなく、自分が住む家を買う人が多くいました。毎年のように地価が上がり、やがて都内では家を持てなくなると言われていたので、自分たちが住むために早めに家を買おうというのは当時の多くの人の心理でした。89年の東京郊外に、5000万円くらいでマンションを買った人は便利の良い場所に買えたわけではありません。通勤にも買い物にも不便な場所ですが、他では買えないからなくなく35年のローンで購入しました。
しかしバブルが弾けると、マンション価格は急落して売却しても2000万円くらいになってしまいます。しかもローンは大部分が残っていて、金利は7%などの高金利になっています。給与はぐんぐん下がり、売ることもできないマンションのローンを払うため、生活レベルを落としてギリギリのやりくりをすることになりました。特に投資でアブク銭を稼いだわけでもなく、上記のようにボロボロになるまで働いたサラリーマンが、自分たちが住むための家を買っただけなのに苦しい生活を強いられることになったのです。
まとめ
バブルを満喫し、その後の人生も順風満帆な人もいるとは思います。しかし多くの人が何かしら痛手を被っています。そして誰もがバブル景気を満喫したのではなく、全く無縁の人も多くいました。そもそも世の中が好景気だと多くの人が実感したのは88年以降で、メディアが好景気だとさかんに宣伝するようになり、ありえないお金の使い方をする人を紹介するようになったからです(ランチを食べに香港まで行くような人がバンバンテレビにでていました)。私の母などは、バブル景気で世の中が浮かれていたというのはテレビの中の出来事と言っており、自分には何の恩恵もなかったと言っています。崩壊後にあれこれ語られたのは、自分も時代の中心近くにいたとアピールしたい虚栄心によるものも多く、あてにならない話が多く含まれています。バブル景気は日本の大きな転換期だったのですが、日本中が浮かれていたわけではなかったんですよ。
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