天才として育つ苦悩 /ある女性の人生

その女性に私が会ったのは、ビジネスの場でした。受付に立つ彼女は、夜逃げでもしてきたかのように荷物を持ち、汗をかいた笑顔で「よろしくお願いします」と挨拶してきました。夕美(仮名)と名乗る彼女は、名の知れた会社に勤務する研究員で、新しいビジネスモデルの提案をしにきたのです。



奇妙なプレゼン

夕美は「私は説明が下手なので、わかりにくかったら説明の途中でも質問してください」と、何度も念押ししてプレゼンを始めました。確かに彼女の話はわかりにくく、何度も質問をはさみました。しかし彼女が何度も準備を繰り返し、入念に準備してきたのは明らかで、よくできたプレゼンでもありました。なんとも変な感じでした。



準備を整えているのに、わかりにくい説明を丁寧に繰り返す様子を見ながら、私は夕美がひどく頭が悪いのではと思いました。そして彼女の提案を断りました。理由は収益化に時間がかかりすぎることと、私が務めていた会社の収益モデルにそぐわないからです。私は収益化の仕組みを簡単に説明しました。どうせわからないだろうからと、かなり省略してザッと説明する感じです。

しかしそれに対する夕美の質問は的確で、かなり核心を突いたことを聞いてきます。今度は夕美が恐ろしく賢い女性に見えてきました。提案を諦めた夕美が落ち込んでいたので、私はいくつかアドバイスして、ビジネスモデル的に合いそうな会社をいくつか勧めてみました。夕美は喜び「またお邪魔してもよろしいでしょうか?」と言うので、いつでもお電話下さいと言って別れました。

突然の来訪

ある日の朝、夕美から電話があり「本日、15時にお伺いしたいのですが、お時間ありますか?」と言ってきました。時間があるので会ってみると、夕美はいくつも面白い情報を持っていました。特に中央省庁に高校の同級生が何人もいるようで、そこから得た情報は興味深いものがいくつもありました。それからちょくちょく、夕美はやってくるようになりました。

何度も会っている中で、夕美が東京出身であること、年齢は私の10歳下であること、都内の私立大学を卒業していることがわかりました。中央省庁に友人が多いので、てっきり東大卒だと思っていたので、私立大学出身というのは少し意外でした。こうして彼女とは広範囲に情報をやり取りし、私は業界の動向を教える代わりに彼女は面白いネタを持ってくるようになりました。

あなたは天才だ

夕美が新たなビジネスモデルを抱えて提案にやって来ました。すっかり打ち解けた夕美ですが、彼女は明らかに緊張した様子で、例によって丁寧でわかりにくいプレゼンを行います。夕美の話を聞きながら、私はふと気がつきました。

「今の説明は、ひょっとしてベルヌーイの定理を言ってるの?」
「そうです!そう言った方がわかりやすいですか?」
「もしかして、ベルヌーイの定理ぐらい説明しなくてもわかると思ってない?」
「・・・すみません。本当に私下手なんです」



やっとわかりました。ほとんどの人は大人の相手に対し「2と3を足したら5ですよね」と説明したりしません。当たり前だからです。夕美はそれと同じ感覚でベルヌーイの定理を当たり前にわかることと思っているのです。

「定理とか公式とか、悩んで理解したことある?学校の授業で聞いて『なに当たり前のこと言ってるんだ』って思ってたタイプじゃない?」

夕美は警戒するような顔つきで「はい」と言いました。ようやくわかりました。夕美は説明が下手なのではなく特別だったのです。

天才の孤独

物心ついた時に、最初に憧れたのは父親だったそうです。頭が良く、どんな難しいことも教えてくれる父親が大好きで、少しでも父親に近づきたくて、書斎に入り浸っていたそうです。そんな夕美は、図書館にあったキュリー夫人の伝記を読んで、こういう頭の良い女性になりたいと思ったそうです。



小学校2年生までは、年齢の割に分厚い本を良く読む少女だったそうで、キュリー夫人になるべく学校の勉強も張り切っていました。小学校3年生の算数の授業で2桁の掛け算を習った時に、なにかコツのようなものを掴んだ感じがして、暗算で計算できるようになりました。2桁ができたから3桁、次は4桁と進み、小4の時には8桁掛ける8桁の掛け算を暗算でできるようになりました。

もともと簡単だと思っていた学校の授業は、さらに簡単に感じるようになり、中学校に通う長男の教科書を借りて勉強するようになりました。全科目で100点を当たり前のようにとり、父親が褒めてくれるのでますます勉強にのめり込みました。父親は高校の数学の教科書を買ってくれて、5年生の時には数列の面白さに夢中になったそうです。

「自分では思ってないんですけど、周りを見下しているように見えたんだと思います」

夕美が昼休みに友達に頼まれて8桁掛ける8桁の掛け算を披露していると、クラスの男子から「お前、自慢ばっかり」と言われたてショックを受けます。そしてこの頃からイジメが始まりました。元から夕美を嫌っている風だった担任は、イジメを黙認しました。私物を隠されることから始まり、やがて暴力にエスカレートし、クラス全員が1日に何回夕美を叩けるかで競争を始めた時に、夕美は不登校になりました。



夕美の両親は何度も学校に行って相談し、なんとか夕美を学校に戻そうとしますが、夕美は学校に居場所がないことを感じていました。特に担任が親に向かって「お嬢さんの気味の悪い面が、他の児童を不安がらせているんです」と言っているのを聞いてショックでした。

「私は気味が悪いんだ」

小6の時は、ほとんど学校に行かず、勉強もせずにテレビを見て過ごしたそうです。

中学での転身

勉強をやめてテレビばかり見ながら、夕美は気味悪がられない普通の女の子になりたいと思っていました。そしてテレビを見て発見しました。世の中は恋愛を中心に回っている。中学生になったら、彼氏を作って恋愛を楽しもうと考えました。ファッション雑誌を読み、テレビの芸能人を真似るようになります。



中学校は、越境して小学校の同級生がいないところに行けるように親が手配してくれました。それから高校までの6年間、夕美は勉強もせずに彼氏を作ることに励んだそうです。しかし恋愛はうまく行かず失敗続きで、同級生からは「恋愛に向いていない」と言われていたそうです。そして夕美は一つの結論に達します。賢い女はモテない。バカな女の方が可愛い。

こうしてさらに夕美は勉強から離れていくのですが、高校ではそれでも常に学年20位内にいたので、担任から「頑張れば必ず国立に行けるから勉強しろ」と言われていたそうです。しかしバカな女に憧れる夕美は、勉強をせずに入れる大学を選びました。

大学で再び転身

大学で自由な環境を得ると、再び心境に変化が訪れます。無理して恋愛に励むこともやめ、アルバイトをして海外旅行に行くようになります。この頃から勉強もするようになり、独学で物理学やプログラム言語を学び、英語とフランス語は映画を見て覚えたそうです。

大学で徐々に肩の力が抜けていったそうですが、自分の知識や頭の良さをひけらかすことだけは、注意深く気をつけていました。イジメの記憶が蘇ると、今でも胸が締め付けられるように苦しいそうで、だから私が「あなたはもしかして天才なのかな?」と言った時に、警戒心をあらわにしたのでした。

こうした夕美の告白を喫茶店で聞きながら、私は気の毒に思いました。そして周囲が気味が悪いと言ったのも、なんとなくわかる気がしました。暗算は今でも得意だと言うので、私が適当に問題を出してみた時のことです。



「居酒屋での支払いが、27984円でした。7人で割ると1人いくらでしょうか?」
「あれ?問題が間違ってませんか?」
「と言うと?」
「27972円だと1人3700円に8%の消費税なんですけど、27984円だと端数になっちゃいます」

私は適当な数字を言っただけでしたが、彼女はすぐに消費税まで一瞬で計算していました。明らかに彼女の頭脳は普通ではないと感じ、背筋がゾクッとしてしまいました。自分の理解を超えたものに直面すると、誰でも恐れを抱きます。気味が悪いというのは、自分の理解が及ばないということだったのではないかと思いました。

恋愛の師弟関係

夕美が過去を告白すると、それ以降は距離が縮まったというか、なんとも厚かましくなってきました。自分の恋愛を相談するのです。「親も心配してて、年齢的にもそろそろとヤバいんです」と焦った顔で言う夕美は面白く、また私の子供の写真を見せると「羨ましすぎて泣きそう」と言う姿が気の毒で、相談に乗っていました。時にデートの前日に電話で励まし、時に喫茶店に呼び出してお説教したりしました。



「なぜ1回食事してから、連絡が途絶えたか心当たりはあるか?」
「ありません」
「ワイン好きの彼が、あなたにワインをご馳走した。まず食事の前に、何をした?」
「ワインの本を読んで、予習しました」
「なぜ?」
「なぜって、ワイン好きの人といっぱいワインのお話をできた方が楽しいじゃないですか」
「その彼はね、『このワイン美味しいですね!』とか「なんていうワインなんですか?また飲んでみたいです』とかあなたに言わせて、喜ぶ顔を見たかったの」
「はあ・・・」
「そして彼はね、何年もかけてワインの知識を積み重ねてきたと思うわけ。それを1週間の予習で追い越したら、面目丸つぶれじゃないか!」
「あぁぁぁぁ!ごめんなさい!」

こんなやり取りを繰り返しつつ、夕美とは仕事にプライベートに連絡をよく取り合っていました。

転機が訪れる

いつからか夕美からの連絡がなくなり、数か月が過ぎました。ようやく恋愛の方が落ち着いたのかと思いましたが、仕事の連絡がないのは変だと思いながらそのままになっていました。すると突然連絡があり、会うと夕美は違う会社の名刺を出し「転職のご挨拶です!」と言ってきました。転職先はかなりの大手企業で、ヘッドハントされたのだそうです。

転職後も公私に渡り連絡を取り合っていたのですが、夕美はアメリカの合弁会社に出向になりました。新天地で自分のやりたかった仕事ができると張り切り、夕美は日本を出発しました。そしてアメリカに行ってから1年も経たないうちに、日本では東日本大震災が発生しました。夕美の会社も大打撃を受け、アメリカの合弁会社を売却するか人員を削減するかの選択に迫られます。メールしてみると、夕美は落ち込んでいました。



「少し考えて、今後の身の振り方を決めたいと思います」

この連絡から数か月後にメールすると、アドレス不明で送信できませんでした。以前の名刺の東京支店に連絡すると、退職したことを教えられました。夕美は会社を辞めて日本に帰ってきたのかアメリカに残っているのかもわかりませんでした。

アメリカで結婚していた

夕美から連絡があったのは、最後のメールから1年以上経ってからでした。日本に帰るので会いませんか?といつものくだけた調子で、私は久しぶりに夕美に会うことにしました。2年ほど会っていなかった夕美は、かなり変わっていました。驚いたのは左手に指輪をつけていたことです。

「結婚できました!好きな仕事もできるようになりました!ご報告がいっぱいあります!」

ハイテンションな夕美の話によると、アメリカに移ってからすぐに夕美は好きな男性ができたそうです。一緒に仕事をしていた他の会社のアメリカ人で、彼はギフテッド(先天的に一般の人より遥かに高度な知能を持つ人)でした。このエリックという男性と話した時に、夕美は初めて自分の知能を隠すことなく自由に話ができたそうです。夕美よりも遥かに賢いエリックの前では、自然と少しバカな女になることができ、初めて気を使わないで会話ができる人に会ったのです。



夕美の会社が規模を縮小し帰国命令が出た時、夕美はどうしても帰りたくなかったそうです。仕事が中途半端に終わるだけでなく、エリックのような男性にはもう会えないかもしれないと思ったからです。夕美は思っていること全てをエリックに話し、2人でどうするべきかを考えたそうです。その結論が、結婚でした。エリックは夕美を自分のボスに紹介し、紆余曲折あって夕美はエリックの会社で働くことになりました。

夕美に写真を見せてもらうと、髭面の陽気そうな男性と2人で写っていました。夕美のこれほど晴れやかな笑顔は見たことがありません。

さらにその後

数か月に1回程度の割合で夕美からメールが来ていて、その中で彼女が妊娠したことを知りました。男の子を出産し、夫婦で別の会社に転職したそうです。子供は成長に会わせて何度か知能検査を受け、ギフテッドだとわかりました。エリックはギフテッドの生徒だけを集めた学校に通っていた経験から、息子もギフテッドの学校に行かせることを強く希望しました。そのために、2人は転職して引っ越したのだそうです。



夕美によると、自分の時のように息子は周囲から浮くこともなく、楽しく学校に通っているそうです。夕美もエリックも数学に高い関心を持っていたのを受け継いで、息子も数学に非凡な才能を見せているそうです。「こんな学校が日本にもあれば、私も行きたかった」と夕美は語ります。エリックと夕美と息子の3人で幸せそうに写っている写真が送られてきました。

まとめ

不登校になるほどのイジメを受けることになった夕美は、高い知能を持って生まれたことが嫌で仕方なかった時期がありました。残念ながら日本にはそのような子供を専門に受け入れるところがなく、夕美は勉強を拒否してバカを演じることで周りに溶け込もうとしました。アメリカでもギフテッドはイジメの対象になりやすく、教師から嫌がらせを受けることもあるそうです。そのためギフテッドのための学校が作られ、特殊なカリキュラムが組まれています。日本にもこういう学校が出来ても良いとおもうのですが、どうでしょうか。



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