支配者と恐れられた男 /長野五輪のドミニク・ハシェック
テレビにはアイスホッケーのハイライトがスローで流れていました。アメリカの解説者は興奮状態で、早口にまくし立てます。「絶対絶命のピンチだ!クソっなんてこった!しかしドミネーター(支配者)が立ちふさがった!」もう、あとは何を言っているのかわからないほど興奮していて、「アンビリーバボー(信じられない)」を連呼していました。場面は1人の選手が抜け出し、ゴーリー(ゴールキーパー)と1対1になった場面でした。
しかし1対1になった瞬間、ゴーリーのドミニク・ハシェックは、左に重心を落としました。そこでパックを持った選手は、すかさずドミニクの右にスラップショットを放ちました。しかしそれはドミニクのフェイントでした。一瞬だけ重心を左に乗せたドミニクは、すぐに右に体を戻し、パックは右に構えたキャッチブロッカーに吸い込まれました。ドミニクは絶対絶命のピンチで、相手にスラップショットを自分が望むコースに打たせたのです。
ドミニク・ハシェックは、守りの要であるゴーリーというポジションながら、常に攻めて守っていました。アイスホッケーに無関心だった私ですが、このシーンは強く印象に残りホッケーのダイナミズムを感じました。
西ドイツで開催されていた18歳以下の世界選手権で、チェコのペトル・スボボダが亡命しました。スボボダの裏切り行為は国を挙げて糾弾され、アイスホッケー選手の動向は厳しく監視されるようになります。しかし89年にベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結すると東側の有力選手はアメリカを目指しました。ドミニクも90年‐91年シーズンからブラックホークスでNHLデビューすると、92年にはバッファロー・セイバーズに移籍して、本領を発揮し始めます。
セーブ率0.93(10本シュートを打たれて、9本以上を止めた)、防御率1.95(1試合平均、2点は奪われていない)という好成績でシーズンを終え、NHL最高のゴーリーになりました。この頃から「ドミネーター(支配者)」と呼ばれるようになります。しかし優勝(スタンレーカップ)には縁がなく、初めてスタンレーカップを制したのは2001-2002シーズンでした。
頑固者でチームの首脳陣との対立を繰り返しましたが、間違いなくNHL最高のゴーリーの一人で、NHL参加が鉄のカーテンで遅れたことが悔やまれる選手です。
しかしカナダはチームメイトのケガもあり、準決勝で敗退します。決勝に残ったのはロシアとチェコでした。かつてプラハの春で、チェコの自由化を軍事力で押しつぶしたロシアとの対戦は、大きな注目を集めました。戦前の予想はロシア有利でしたが、ドミニクがロシアに立ちふさがりました。スコアレスで迎えた第3ピリオドに、84年に亡命したスボボダが得点します。ロシアは第4ピリオドに猛攻を見せ、チェコは虎の子の1点を死守するために奔走します。
ロシアは過剰なほど前のめりになり、ドミニクは圧倒的なロシアの攻撃にさらされました。しかしこの日のドミニクは、リンクの支配者でした。ロシアの6人がかりの攻撃も防ぎ、何本ものスラップショットを体で防ぎました。ロシアの得点は時間の問題と思われましたが、ドミニクは最後まで得点を許しませんでした。チェコは長野で歓喜の涙を流します。
攻めるゴーリー 攻めるディフェンス
アイスホッケーで、ノーマークの選手がゴーリーと1対1になるということは、ビッグチャンスを意味します。厚さ2.5センチ、直径7.6センチの小さなパックは、スラップショットと呼ばれるフルスイングのショットで放たれ、その速度は時速150km/hにものぼります。わずか5メートルほどの距離から時速150km/hで放たれたパックを目視するのはほぼ不可能で、大抵のゴーリーになすすべはありません。相手のミスショットを祈るばかりです。しかし1対1になった瞬間、ゴーリーのドミニク・ハシェックは、左に重心を落としました。そこでパックを持った選手は、すかさずドミニクの右にスラップショットを放ちました。しかしそれはドミニクのフェイントでした。一瞬だけ重心を左に乗せたドミニクは、すぐに右に体を戻し、パックは右に構えたキャッチブロッカーに吸い込まれました。ドミニクは絶対絶命のピンチで、相手にスラップショットを自分が望むコースに打たせたのです。
ドミニク・ハシェックは、守りの要であるゴーリーというポジションながら、常に攻めて守っていました。アイスホッケーに無関心だった私ですが、このシーンは強く印象に残りホッケーのダイナミズムを感じました。
ドミニク・ハシェックの略歴
1965年、チェコ・スロバキア(現在のチェコ共和国)のボヘミアに生まれました。16歳でチェコリーグでデビューし、83年にはアメリカNHLのシカゴ・ブラックホークスから指名されます。しかし冷戦下で共産圏に住むドミニクがアメリカに行けるはずもなく、そもそもドミニクは自分が指名されたことすら知りませんでした。そして84年に事件が起こります。西ドイツで開催されていた18歳以下の世界選手権で、チェコのペトル・スボボダが亡命しました。スボボダの裏切り行為は国を挙げて糾弾され、アイスホッケー選手の動向は厳しく監視されるようになります。しかし89年にベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結すると東側の有力選手はアメリカを目指しました。ドミニクも90年‐91年シーズンからブラックホークスでNHLデビューすると、92年にはバッファロー・セイバーズに移籍して、本領を発揮し始めます。
セーブ率0.93(10本シュートを打たれて、9本以上を止めた)、防御率1.95(1試合平均、2点は奪われていない)という好成績でシーズンを終え、NHL最高のゴーリーになりました。この頃から「ドミネーター(支配者)」と呼ばれるようになります。しかし優勝(スタンレーカップ)には縁がなく、初めてスタンレーカップを制したのは2001-2002シーズンでした。
頑固者でチームの首脳陣との対立を繰り返しましたが、間違いなくNHL最高のゴーリーの一人で、NHL参加が鉄のカーテンで遅れたことが悔やまれる選手です。
長野オリンピックの奇跡
プロが解禁になったオリンピックのアイスホッケーでは、各国がプロを送り込んできました。最大の注目はウェイン・グレツキーがいるカナダでした。アイスホッケー史上最高の選手であるグレツキーは、日本で例えるのが困難な選手です。ありとあらゆる記録を更新し、カナダだけでなく世界中で絶大な人気を誇り、その一挙手一投足が注目される選手で、結婚式はロイヤル・ウェディングと言われるほどの選手でした。![]() |
※史上最高のプレイヤー、ウェイン・グレツキー |
しかしカナダはチームメイトのケガもあり、準決勝で敗退します。決勝に残ったのはロシアとチェコでした。かつてプラハの春で、チェコの自由化を軍事力で押しつぶしたロシアとの対戦は、大きな注目を集めました。戦前の予想はロシア有利でしたが、ドミニクがロシアに立ちふさがりました。スコアレスで迎えた第3ピリオドに、84年に亡命したスボボダが得点します。ロシアは第4ピリオドに猛攻を見せ、チェコは虎の子の1点を死守するために奔走します。
ロシアは過剰なほど前のめりになり、ドミニクは圧倒的なロシアの攻撃にさらされました。しかしこの日のドミニクは、リンクの支配者でした。ロシアの6人がかりの攻撃も防ぎ、何本ものスラップショットを体で防ぎました。ロシアの得点は時間の問題と思われましたが、ドミニクは最後まで得点を許しませんでした。チェコは長野で歓喜の涙を流します。
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