私が初めてマッキントッシュというアップル・コンピュータ社製のパソコンに触れたのは学生時代の頃でした。当時のマックはフロッピーディスクドライブとプリンターを合わせて購入すれば100万円を軽く超え、自動車を買うかマックを買うか悩む人がいました。その次に触ったのは、おそらく90年代のパワーブックで、開発コードネームがBlackBirdと呼ばれた機種でした。この頃、インターネットが広がり始め、時代は急速に変わろうとしていました。
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※映画「ミッション・インポッシブル」に登場したパワーブック |
喫茶店でパソコンを買う時代
就職してからパソコンとは無縁の生活を送っていましたが、どうやらこれからはパソコンが必要になると感じていた私は、パソコンを購入するべきか悩んでいました。毎年のように引っ越しをしていたので、精密機器を買うことに躊躇していたのです。そこで買うならラップトップ(今でいうノートパソコン)しかなく、しかも買うならマッキントッシュと考えていました。
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※93年発売のカラークラシック |
理由は二つあります。当時のパソコン業界では、マッキントッシュは圧倒的に高性能で洒落たパソコンだったのです。NECや富士通の野暮ったいパソコンと違い、マッキントッシュは筐体が美しいだけでなく性能も良いとされていました。そこで知人に相談したところ「中野に良い喫茶店がある。買うならそこにしとけ」と言われました。なんのことかと尋ねると、会員制のその喫茶店で店長に頼むとマッキントッシュが買えるのだそうです。一応、当時の販売店だったキャノンの保証はついています。
ただし値引きはなく、ほぼ定価で買わなくてはなりません。ではなんのメリットがあるかというと、そこでマッキントッシュを買うと店に置いてあるマッキントッシュからソフトをコピーし放題になると言うのです。当時のマッキントッシュは、アプリケーションフォルダーにあるソフトをコピーするだけでソフトのコピーができました。「それ違法じゃないのか?」と尋ねると、友人はもちろん違法だと答えました。結局、私はそこで買いませんでしたが、マニアの間では知る人ぞ知る喫茶店だったようです。
コメットのお飾り騒動
97年にパワーブック2400c(開発コード名コメット)が発売されると、日本のマックフリークは熱狂しました。やっと日本に合った小型のパワーブックが出たと喜び、これまでの重くて大きいパワーブックから一斉に買い替えが始まります。確か40万円ちかくしたと思いますが、これが飛ぶように売れていました。多くの人がコメットをカバンに入れて持ち運び、見せびらかすように使っていました。
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※PowerBook 2400c |
すると見せびらかしたい心境が加速し、「お飾り」というのが流行り始めました。今でいうデコるみたいなもので、当初はシールを貼ったりする程度だったのが、だんだん先鋭化していきます。やがて彼らは「お飾り愚連隊」と呼ばれるようになり、パソコンを塗装したり様々な改造を凝らすようになりました。ここに田中裕子というフリーライターが登場し、ネットの効果もあってお飾り愚連隊は一気に広まりました。
田中裕子は元キャノンの社員で、他社の新製品を購入してバラし、内部を調査する仕事をしていました。田中裕子の名を知らしめたのは、まさにコメットが発売された時で、発売当日にコメットを全解体して、その内部をネットに公開したのです。「買ったばかりでバラす、とんでもない女がいる!」とネットは騒然とし、彼女の手引きによってコメットをバラす人達が続々と現れました。これが改造に大きく貢献し、お飾り愚連隊の先鋭化が進みました。
コメット復帰を望む人たち
日本市場をターゲットにしたコメットは、日本では大ヒットになりました。しかしアメリカでは惨憺たる売り上げで、一説によるとわずか5000台しか売れなかったそうです。アップルは商業的な失敗として、わずか1年で販売が中止されました。これに日本のユーザーはガッカリし、なんとかコメットぐらいのサイズのパワーブックを出してもらえないか、思案していました。
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※ここにジョブズを乗せようと本気で考えていました。 |
そんな中、スティーブ・ジョブズの復帰が決まり、ジャパン・デベロッパーズ・カンファレンスのために来日するという噂が広がりました。そこでコメットファンたちは、なんとかジョブズを朝の山手線に乗せて、こんな狭くて苦しい中でパワーブックを持ち運ぶ日本のユーザーには、コメットぐらいの小さなモデルが必要だとわかってもらおうという話になります。これはネット掲示板を中心に話し合われ、さまざまなアイデアが出されました。とにかくジョブズが来日した時が最大のチャンスとユーザーの鼻息は荒かったのですが、アップルからジャパン・デベロッパーズ・カンファレンスを中止すると発表があり、この計画は終焉しました。
アップルの株を買う運動
倒産の危機に瀕したアップルを救おうと、アメリカを中心にアップル株を1株買う運動が始まりました。これが日本にも波及し、買ったところで当時の日本では外国株を売れないにも関わらず、多くの人が購入していました。株価ですから日々変わり値段は上下していましたが、私が聞いた時は10ドルちょっと(1000円ぐらい)で、これを額に入れて送るサービス(当時の株式は紙でした)があり、アメリカからの配送料など込々で3000円程度でした。
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※アップルの株券 |
株を買い支えるというより倒産前に記念として買っておこうというノリの方が強く、またアメリカの会社の株券を持っているというのも珍しいので購入する人がいました。この時10ドル程度だった株が、10年後には7万円を突破するのですが、その時はそんなことは誰も思いません。倒産の危機が日々迫るアップルを心配しながら、ちょっとしたお祭り気分で売買されていました。
90年代はITが熱い時代だった
アップルとは関係ないですが、99年のヒューレットパッカード社のHP200LXの販売停止撤回運動も厚く盛り上がっていました。新宿に大勢の人が集まり、反対署名運動が繰り広げられ、200LXの延命を望みました。残念ながら発売中止は覆りませんでしたが、この熱気がPalmの日本語化に乗り移り、2000年代初頭まで続くPDAブームに繋がりました。Palmの日本語化に成功した山田達司さんは、HP200LXの祭りに乗り遅れたのが開発のきっかけだったと言っていて、その話はまた別に書きたいと思います。
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※HP200LX |
アップルは倒産寸前になり、復帰したスティーブ・ジョブズは宿敵ビル・ゲイツに資金提供の約束を取り付け、「悪魔と取引した」と言われました。この時代は奇妙な熱気があり、まさにIT時代の幕開けとなりました。時々、この時代を懐かしく思ったりします。
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