超合筋 /武田幸三の栄光

キックボクサーの武田幸三を覚えている人は少数派だと思います。日本のキックボクサーで、タイのラジャダムナンスタジアム認定の王者に就き、K-1 MAXにも出場していました。引退した現在は俳優業に加え、鉄板焼き屋などを経営しているようです。今回は、その武田幸三のことを書いてみたいと思います。



スポーツ誌Number

2000年に出たNumberの記事で、私は武田幸三の名前を知りました。「ムエタイ王者になる男」と題された記事で、武田を「超合筋」と呼んでいました。ムエタイ王者に最も近い位置にいるという内容でしたが、それ以上に武田の写真に目を奪われました。顔がわからなくなるほど陰影の強い写真で、武田の筋肉が細かいところまで映し出されていました。太く力強い筋肉ではありません。ワイヤーを束ねて締め上げたような、細くて強靭な筋肉です。

カモシカのような筋肉だと思い、サッカー選手のティエリー・アンリなどを連想させられました。武田の筋肉は重いウエイト器具を使って鍛えられた筋肉とは全く異なり、競技をする中で必要な筋肉だけを抽出したような雰囲気でした。Numberに掲載された写真は美しく、武田幸三に強い興味を持ちました。

特異な武田幸三の戦い

2001年、外国人として4人目、日本人として3人目のムエタイ王者になり、フジテレビだったと思いますが、深夜番組で武田幸三の試合が放送されました。ムエタイはタイで人気が高く、分厚い選手層が形成されているため、外国人が入り込む余地はないと言われています。そこで王者になるのは、高い高い壁を乗り越えなくてはなりません。

※本場ムエタイの選手

テレビで見た武田の試合は特異なスタイルでした。ムエタイではポイントにならないローキックとパンチに特化したスタイルで、しかもコンビネーションや連打が極端に少ない戦い方です。ムエタイではミドルキックが多用され、腕を蹴ってもポイントになります。ですから必然的にミドルキックの応酬になり、ムエタイ特有のリズムに飲まれていきます。

またムエタイでは首相撲が大きなウエイトを占めていて、首相撲から投げるとポイントになります。首相撲から膝蹴り、肘打ちの餌食になることも多くありますが、武田は首相撲にほとんど付き合いません。ムエタイではポイントにならないが故に、あまり重視されないパンチとローキックを多用することで、KOで勝利を奪うのが武田のスタイルでした。


あまりにストイックでハイリスクなスタイルですし、相手のリズムに巻き込まれないためとはいえ、コンビネーションを使わないのは日本のキックボクシングにおいても特異です。武田は常に断崖絶壁を背負うようにして、勝ち続けてきたのかと思うと、胸が詰まる思いがしました。

勘違いからのスタート

ラグビーをしていた武田は、94年に行われた第1回K-1GPをテレビで見て、優勝したブランコ・シカティックが2000万円もの賞金をもらったことに衝撃を受けます。一攫千金、のし上がることを夢見ていた武田は、すぐに電話帳でキックボクシングのジムを探して入門しました。学校も辞めて、キックボクシングだけに生活をかけました。

関連記事:90年代の K-1を振り返る /第三次キックブームの到来

5歳の頃に両親が離婚し、妹2人と祖母の5人暮らしで、男1人の家族の中で自分が頑張らなくてはと思っていた武田は「のし上がる」ことに、強いこだわりを持っていたのです。ブランコ・シカティックのように1日で2000万円稼いで、家族を守るという想いでキックボクシングに打ち込みます。

入門してまもなく、ジムで「早くK-1に出たい」と言う武田に「お前、なんか勘違いしてないか?」と先輩が言いました。武田が入門した治政館ジムは、新日本キックボクシング協会に所属するジムで、K-1とは何ら関係のないジムでした。ヘビー級で出るために90kgまで増量していましたが、全く無駄だとわかりました。しかしプロになればファイトマネーが入るし、チャンピオンになれば大金が入ると考え、キックボクシングに打ち込みました。

一度は絶望したキックボクシングの世界

武田はプロになり、デビュー線を飾ります。会場は普段は屋台が並ぶスペースで、控え室はカラオケボックスのコンテナでした。ファイトマネーは1万5000円で、現金5000円と2枚のチケットでした。怪我の治療費を考えると赤字です。さらにショックだったのは、チャンピオンになった人達もアルバイトで生計を立てているという事実でした。

キックボクシングではのし上がれない現実を知り、武田はジムを辞めました。そしてK-1を主催する正道会館に入門して、空手を始めました。K-1に出るためには、正道会館で認められるのが最短距離だったからです。ここで武田に何が起こったかはわかりませんが、武田は「ジムを離れて、会長がどれだけキックボクシングに真摯に向き合っているかわかった」と言います。

※ラジャダムナンスタジアム

武田は正道会館を辞めて、治政館ジムに戻りました。もう金の問題ではなかったと言います。キックボクシングバカの会長の元、一旗揚げてやろうと意気込んでのジム復帰です。翌年には日本ウェルター級タイトル戦を行い、目標をムエタイに定めました。そして2001年に、ラジャダムナンスタジアム認定のタイトル戦を行い、王者になる快挙を達成しました。

K-1 MAXへ

ヘビー級しかなかったK-1が、70kg以下のミドル級を新設してトーナメントを開催していました。武田とは比べ物にならないほど高額なファイトマネーを得ているK-1は、かつての武田が抱いていた一攫千金の舞台です。2003年に日本代表決定トーナメントに出場し、順当に決勝まで進みますが、決勝戦で魔裟斗に判定で負けてしまいました。


勝利した魔裟斗が、足をアイシングしたまま歩行が困難になるほどのダメージを受け、敗北した武田には大きな期待がかかりました。しかし武田は、大きな実績を残せませんでした。原因の多くは、打倒ムエタイに特化しすぎた武田のスタイルに加え、長年の蓄積だった怪我の再発です。特に目の筋肉を痛めてピント調整ができなくなり、ものが二重に見えるまま戦っていました。選手生命を脅かすため、手術をせずにリングに立っていました。

引退試合

2009年、K-1 World MAXで武田の引退試合が組まれました。対戦相手はアルバート・クラウスで、武田は一方的に攻め込まれます。武田がローキックでダウンを奪われるという、目を疑うことが起こります。さらにパンチを浴びた武田は、ゆっくりとしゃがむようにダウンしました。武田の体に異変が起こっているのは明らかで、あまりに危険なダウンです。


しかしレフリーは試合を続行させ、朦朧とした武田は打たれ続けました。武田の完敗で引退試合は終わり、テレビを見ていた視聴者から「武田を殺す気か!」と抗議の電話が殺到しました。レフリーの角田信朗が謝罪し、3ヶ月の業務停止処分を受けると「あまりに軽いペナルティ」と批判が続出し、武田の引退よりレフリングの悪さが目立つ結果になってしまいました。

後に武田は1Rの時点で、パンチによる衝撃で右目の視力を失っており、ローキックで倒れたのも見えてなかったからでした。あまりに危険な状態だったことが、再確認されました。以前からK-1はトーナメントで怪我をした選手が試合を行う場合、「リングドクターは棄権するように勧めたが本人がどうしてもやりたいというから出場を認めた」みたいな、安全性を軽視して視聴率を優先する面がありました。そしてファンもそれを認めていた部分があります。しかし武田vsクラウス戦では、そういったファンの目から見てもやり過ぎだったのです。

まとめ

武田幸三は日本を代表するキックボクサーで、国内最強だったと言って良いでしょう。ポイントの奪い合いを行うムエタイでポイントを捨て、KOだけを狙うハイリスクなスタイルで頂点に立ちました。その武田が全国放送されたK-1の舞台で、あまり成果を残せなかったのは残念です。

時に「武田は弱かった」という論調を目にしますが、とんでもない誤解です。打倒ムエタイに特化しすぎたスタイルが、K-1ルールにフィットしなかったに過ぎません。逆にK-1 World MAXに出ていた選手で、ムエタイの王座を狙える選手がいたか?と言うと皆無だったことが、武田の偉大さを示していると思います。武田は別枠の選手だったのです。

「まるで鉄の角材で叩かれたよう」と、一流のキックボクサー達に恐れられたローキックの凄みが、多くの視聴者に伝わらなかったのは残念でなりません。



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