故星野仙一氏をどう評価するべきか

星野仙一氏が亡くなりました。あまりの早い死に驚きが隠せず、球界にも戸惑いの声が広がっています。私は以前のブログで落合博満氏との確執や北京五輪の敗退に関して、星野氏のことを書きましたが、その時からずっと星野氏をどう評価するべきか迷っています。


私が星野仙一氏の名前を覚えたのは小学生の頃で、王貞治氏が756号の世界記録更新間近の時期でした。「王選手の756号は俺が止める」と言う中日のピッチャーが目にとまったのです。「1人じゃ止められんだろ」と、子供心にツッコミを入れた記憶があります。


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星野仙一氏の略歴

大卒で中日に入ると146勝を挙げています。大卒としては(高卒に比べてキャリアが短い)、かなりの好成績です。そして対ジャイアンツ戦での勝率は圧巻で、常にジャイアンツ憎しを声高に言っていました。一方でこれは「テレビ放送がある試合だから張り切る」という指摘もありました。

※現役時代の星野氏

82年に引退し、86年に中日の監督に就任します。中日で2度のリーグ優勝を果たすと、2002年からは阪神の監督に就任して2003年にはリーグ優勝を遂げ、2013年には楽天で優勝を遂げています。日本シリーズに弱いと言われていましたが、楽天では日本一になっています。複数球団でリーグ優勝を遂げた監督は少数ですが、セパ両リーグで優勝を遂げた希有な監督です。

北京オリンピックでの敗退

監督として挑んだ北京オリンピックでは「金メダル以外はいらない」と強気の発言で挑むものの、韓国とアメリカに敗れて4位に沈みました。選手の起用方法や采配など疑問が残り、各方面から一斉に批判が集まりました。しかし球界の一部には擁護する声もあり、次のWBC監督候補になります。



このWBC監督を巡って再び世論は再燃し、イチローなどは公然と星野監督ではWBCはダメだと発言して大きな騒動になりました。事態は二転三転し、星野氏は監督に就任することなくWBCは原辰徳氏が監督になりました。

私がこの経緯でうんざりしたのは星野氏が「敗因は全て自分にある」と全責任を認めながら、口を開けば自己弁護と他者批判に終始したことでした。星野氏の発言をまとめると、曖昧な判定を繰り返す審判と、正しいデータを渡したのにそれを無視した選手に敗因があるということになります。NHKはその証言を元に番組を作ったりしました。

しかしこのチームはロッカールームに問題があったことは明かで、江夏豊は「自分が聞いたかぎりでは、あのチームにいた選手は二度と星野に関わりたくないと言っている」と、星野氏やコーチ陣と選手の間に大きな確執があった可能性を言及しています。

また落合博満氏は、五輪の戦犯とされた岩瀬が自殺をほのめかすほど憔悴しきっていたにも関わらず、それを放置した星野氏に憤りを露わにしています。岩瀬の起用方法も雑だったため、落合氏はWBCに選手を貸さない方針を決めることになりました。

※先発投手なのに中継ぎで多用されて打たれまくった岩瀬

パワハラ上司だった

星野氏は今でいうならパワハラ上司で、鉄拳制裁を頻繁に使いました。特にキャッチャーへの制裁は多く、ほぼ毎日のように殴られるキャッチャーがいたようです。その暴力の多さに嫌気がさした中日のパウエルは「他の選手を殴るのを止めてくれ。殴りたいなら俺を殴れ。ただしその時に救急車に乗るのはあんただ」と、迫ったそうです。

また三冠王として鳴り物入りで中日に入団した落合博満氏は、学生の頃から体罰に対して強く否定していたので、星野氏とは何かと反目するようになります。星野対落合の確執は落合氏が選手時代から始まり、和解することなく長年に渡って続きました。

※長い間確執が言われている落合博満氏

よく言われることに、この鉄拳制裁は弱い物に向けられることが多く、星野氏は上記のパウエルなど強い者には決して向けられなかったということです。絶対に仕返ししてこない人には声を荒げて強く出て、反撃されそうな人には丁寧に接していたと言われています。

男芸者だったという評価

会社で言うなら星野氏は広報部長のような人でした。プロである以上、まず人気を得ることが大事だと考えていて、セルフプロデュースに長けていました。「闘将」というイメージで知られていましたが、実は気が弱い人だというのも知られています。しかし闘将のイメージを巧みに使い、メディアとの懇親会には人一倍気を遣い、芸能人との関係も大事にしていきました。

そのため監督をしていない時期でもテレビ出演が多く、なにかと話題になる人物でもありました。星野氏は派手な発言と接待でメディアを巧みに使い、自身やチームを何かと話題の中心に持って行くことが得意だったのです。またタニマチとのつきあいにも長けていて、多くのタニマチを獲得していたと言われています。その高い人気を背景に、球界内での発言力を強めていました。

※多くのバラエティ番組に出演していました。

こうした広報マンのような身の振り方を嫌う人もいました。北京五輪の後の大バッシングは、こうしたアンチ星野の勢力が一斉に口を開いたことで大騒動になりました。

情に厚い人物像

「若手のエラーは3回までは許す。ピッチャーも怒るな」などの言葉で知られるように、期待する若手は失態が続いても使い続けることで有名でした。毎回のようにベンチ裏で殴る選手であっても使い続けていて、星野氏が忍耐強く使い続けたことで開花した選手も多くいます。しかし好き嫌いがハッキリしているため、自分が目に掛けていない選手に対しては冷淡だったと言われます。

そしてこの温情が、北京五輪でエラーを重ねていたGG佐藤を使い続け、致命的な場面でのエラーを招くなどの結果を招きました。ここら辺りが長期戦のペナントレースには強いが、短期決戦には弱いと言われた原因だと思われます。

※2度のエラーに号泣するGG佐藤

果たしてどう評価するべきか

日本でも知られるサッカーの名将アーセン・ベンゲルは「結果が重要なのではない。結果が全てなのだ」と語ります。ベンゲルの言葉を借りるなら、星野仙一氏はプロ野球監督としては名将で、アマチュア大会では全くダメな監督だったということになります。特に低迷していた阪神や楽天に監督就任した年に、すぐに順位を上げて翌年には優勝させているのですから、その手腕は見事だと思います。



しかし謎の采配が多かったことも事実であり、それは星野氏が「方程式」と呼ぶ星野氏にしかわからない基準によって行われていました。また星野氏が嫌われる原因の一つに、成功した物は他人の手柄であっても自分のものにすることが多く、よく「あの選手は俺が育てた」と発言することに苦言を呈する人もいました。

当たり前のことですが、何事も完璧な人はいません。星野氏は輝かしい成功を収めると同時に、それを批判する人も多くいたということです。しかしこれほど功罪がくっきりと出る人は珍しいと思うのです。そのため、どう評価してよいかいつも悩んでしまいます。

しかし、これほど昭和の臭いを強烈に発していた野球人も少なく、星野氏の死によってまた一つの時代が終わったと感じてしまいます。


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