アニメの実写化

※こちらは以前の「はねもねの独り言」に書いていた記事です。

最近、アニメやマンガの実写化が多いですね。そして大抵の場合は酷いことになっています。その理由は明白で、そもそもマンガやアニメでヒットするものの多くには実写では表現できない過剰さがあるからです。遠近法が無視されたり、怒った時だけキャラクターが巨大化したり、数万人が一斉にコケたりと実写では困難な過剰な演出が当たり前のようにあります。それを実写にすれば、どうしても迫力不足で地味なものになりますよね。


加えて特殊なキャラクターに支えられているものも多くあります。その特殊なキャラクターは、見る側の「マンガだから」「アニメだから」という暗黙の同意によって成り立っている部分も多いのです。ですからマンガやアニメならケンシロウの兄がジャギでも違和感なく受け入れられるのですが、実写になると「日本人の兄貴が外国人なの?」となってしまいます。暗黙の同意や予定調和が取り払われてしまうと、途端に変な設定になってしまうのです。

最近のアニメの実写化で成功した例を考えると「BALLAD 名もなき恋のうた」が思い出されます。クレヨンしんちゃんの映画「嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」を実写化したもので、草なぎ剛、新垣結衣主演で公開されました。このアニメの主人公である野原しんのすけは特殊なキャラクターで、これを実写化するとなると痛々しい映画になるのは間違いありません。しかし「BALLAD」では、このキャラクター性は完全に無視されています。つまり普通の男の子になっているのです。

そもそもこのアニメ映画は、クレヨンしんちゃんらしからぬ作品として賛否両論でした。従来のドタバタのおバカコメディ路線を継承しつつ、ラストは唐突な死によって悲しいお別れが訪れます。「クレヨンしんちゃんで、子供を泣かせてどうするんだ」という批判があり、実際に見た子供達の多くが戸惑ったようです。しかし同時に名作とも言われ、多くの賞賛も浴びました。この賛否両論は「死」という重たいテーマを扱っていることに起因しています。

合戦が始まる頃には「お祭りみたいだぞー」とはしゃいでいたしんのすけが、ラストのシークエンスでは又兵衛の死に直面して涙します。幼いしんのすけが「死」の意味を知った瞬間であり、しんのすけが一つ成長した瞬間でもあります。製作者は「死」の意味を考える事を通じて、子供達に「生きる」ことの意味も考えて欲しかったのでしょう。それを「クレヨンしんちゃん」でやることの是非があるから賛否両論になったわけです。

このように、らしからぬ素材に加え「BALLAD」の製作者はクレヨンしんちゃんを実写化したかったわけではありませんでした。時代劇の合戦ものを作りたくて、その中で目に止まったのがたまたまクレヨンしんちゃんだったのです。ですから野原しんのすけという特殊なキャラを切り捨てることに躊躇しなかったと思います。おバカで問題児のしんのすけを引っ込み思案な子に置き換えることで、子供の成長が明確に伝わりやすくなりました。

アニメのストーリーをほぼ踏襲しながらも映画の主軸は身分の違う者同士のかなわぬ恋とし、見せ場は合戦シーンで、そこにタイムスリップしてきた子供の成長を重ねるというフォーマットで実写化が行なわれ、クレヨンしんちゃんはどこにも存在しない映画になっています。ですからアニメ特有の誇張した過激な演出を無理やり実写化する必要がなかったんですね。ですから他の実写版に見られる痛々しさはほとんどありませんでした。

個人的にはもの凄く面白かった映画とは言いがたい「BALLAD」ですが、アニメの実写化・スピンオフとしては良かったと思います。単にアニメを実写化したら確実にコケますし、このようなヒントが日本にはあるのですが、どうして同じ失敗を繰り返すのでしょうか。私にはそれが不思議です。






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