日本サッカーが完全燃焼した97年を振り返る/フランス大会アジア最終予選

日本のワールドカップが終わりました。激戦を繰り広げた日本代表を見ていると、97年に日本が初めてワールドカップ出場を決めた試合を思い出します。あの時、日本がワールドカップに行けなかったら、これほどサッカーが盛り上がることはなかったかもしれません。



2002年にワールドカップの自国開催を控え、出場したことのない国がワールドカップを開催するのは歴史的な恥だと多くの人が考え、日本のワールドカップ出場は悲願だといわれました。あまりに熱かった97年の秋でした。


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波乱含みの幕開け

アジア最終予選は4年前のドーハのように、一都市で11月に開催されるはずでした。しかし開催地を巡る争いが激化したために、7月になって急遽ホーム&アウェー方式に変更が告げられました。9月から始まるため、各国は大幅にスケジュールの前倒しが求められ、準備不足の国もありました。

※加茂周(かも しゅう)

日本は監督の選考でも揉めました。代表監督を決める権限を持つ強化委員会が、加茂周監督では予選に勝てないと判断して、ヴェルディ川崎の監督だったネルシーニョに交代させることを決めました。しかし日本サッカー協会会長の長沼健は、鶴の一声で加茂監督の続投を決めます。この続投に関して長沼会長は「加茂でダメなら俺が辞めればいいだろう」と発言して、これが後の火種になります。

最終予選の開幕

97年9月7日、国立競技場のウズベキスタン戦でアジア最終予選が始まりました。6-3で日本は快勝しますが、リードしている日本がカウンターを食らう展開に、違和感を覚える人もいました。続く9月19日にアブダビで行われたUAE戦は、UAEの選手が暑さで動けなくなる猛暑の中、1-1で引き分けました。ここまでは上々の滑り出しと思われました。

※国立のウズベキスタン戦でゴールを決めた三浦知良

続く国立競技場での韓国戦は、山口素弘の芸術的なループシュートで先制し、韓国のDFラインをズタズタにして追い詰めていました。先制した直後に加茂監督は、DFの秋田豊を投入します。DFの投入で守りに行くかと思いきや、加茂監督はラインを下げるなと攻撃を指示し、選手は混乱します。試合は韓国が2点を返して鮮やかな逆転勝利を決めました。確実に勝てた試合を落とした日本代表に暗い影が落ちました。




アルマトイの夜

10月4日、アルマトイで行われたカザフスタン戦では、秋田豊の先制ゴールでリードしながらもラスト1分で追いつかれてしまいました。これで予選通過の1位は絶望的になり、夜に日本サッカー協会が記者会見を急遽開きました。内容は加茂監督の更迭でした。後任は、次の試合だけ指揮を執ることを承諾した岡田武史コーチでした。

※カザフスタンに追いつかれてガックリ肩を落とす日本代表

この夜、最悪のムードが漂った日本代表はホテルの一室に集まり、溜まっている想いを吐き出しあったと言います。アルマトイの夜に、日本代表は生まれ変わろうとしていました。そして帰国した日本代表を迎えたサポーターは、日本サッカー協会会長の長沼健に「長沼辞めろ!消え失せろ!」と罵声を浴びせました。生まれ変わろうとする日本代表の周囲は、険悪なムードが立ち込めていました。

国立競技場の暴動

タシケントで行われたウズベキスタン戦は、他の試合結果によっては日本が負ければ予選敗退が決まる試合でしたが、日本は1点を先制されます。しかしラスト1分で呂比須ワグナーのヘッドでなんとか引き分けに持ち込みました。日本は予選敗退を免れましたが、この引き分けによって、日本はプレイオフに行ける2位も自力では不可能になりました。

そんな日本代表に幸運が訪れます。UAEがカザフスタンにまさかの敗戦を喫し、日本が次のUAE戦に勝てば再び2位に浮上するチャンスが回ってきたのです。そのため10月26日の国立競技場は、異様な熱気に包まれました。日本代表への声援と長沼辞めろの大合唱の中で試合が始まります。



呂比須の先制ゴールで始まった試合は、サポーターの大歓声に押されながらも日本代表は攻めきれず、UAEに同点ゴールを許しました。日本のサポーターからは「やる気あんのか」「お前らサッカー辞めろ」といった怒りの声とともに、ピッチにはコップやゴミが投げ込まれました。そして批判はここ数試合、走れない、動けない、シュートを打てないエースの三浦知良に集中します。

日本代表が乗ったバスはサポーターに取り囲まれ、バスにはさまざまなものが投げつけられました。三浦に「辞めろ」「腹を切れ」と罵声が飛び交い、コップやイスを投げつけられ、さらに三浦の愛車のベンツが壊されました。代表のバスは警察に守られて国立競技場を後にしました。

この時点で韓国の1位通過が決まりました。3位の日本はプレイオフ進出を掛けて2位にを目指すしかなく、それには残りの試合に勝利しつつUAEの負けを期待するしかありませんでした。自力2位は完全に消滅したのです。





チャムシルの決戦

11月1日のチャムシル・スタジアムでの韓国戦には、悲壮感が漂っていました。日本がアウエーで韓国に勝利したことは10年以上なかったのですが、日本から1万5000人以上のサポーターが訪れて日本代表を後押ししました。

日本は名波浩の先制ゴール、呂比須の追加点で2点のリードを得ると、国立競技場の二の舞を嫌った岡田監督は、交代のカードを切りつつ前線へのプレッシャーを緩めませんでした。臨時監督だった岡田武史が徐々に自分の持ち味を出し、日本は2-0のまま逃げ切りました。日本はなんとか望みを繋げたのです。

※得点した名波と呂比須

そして11月8日に国立競技場で行われたカザフスタン戦で日本は5-1で勝利し、UAEが負けたこともあって2位に滑り込みました。リーグ戦全てを終了し、プレイオフの第3代表決定戦への出場権を獲得したのです。

イランとの死闘

日本サッカー協会は、あらゆる駆け引きを駆使して、イランとの第3代表決定戦の開催地をインドネシアのジョホールバルにすることに成功しました。日本に近いジョホールバルには日本からのサポーターが大挙して押し寄せ、一夜にして日本人の街に変貌しました。ジョホールバルの決戦を前に岡田監督は妻に電話を入れ、「何があるかわからないから、子供を連れて実家にいろ」「もし負けたら俺は日本に帰れなくなるから、その時は別れてくれ」と話しています。戦争のような雰囲気が、ジョホールバルの街を包みました。

試合は中山の先制ゴールで始まり、アジジとダエイのゴールでイランが逆転、さらに城のゴールで日本が同点に追いつく痺れるようなシーソーゲームの末に延長戦に突入します。サドンデスの延長戦は、開始早々に岡野がゴールに迫りつつも得点できず、城はキーパーと交錯して意識を失うなどの死闘になっていきます。

PK戦の可能性も見え始めた頃、呂比須からボールをもらった中田がシュートを放ち、キーパーが弾いたボールを岡野が流し込んで勝利しました。劇的なVゴールで、日本のワールドカップ出場が決まりました。



まとめ

何度も絶望的な気分になり、いくつかの幸運に助けられ、日本が死に物狂いで勝ち取った初のワールドカップ出場です。サポーターは怒り、喜び、スタジアムで感情を爆発させ、最後に歓喜を味わいました。勝利した日本代表のロッカールームは勝利の喜びより、ワールドカップに出場できることに安堵し、静まり返ったといいます。やっと終わったという安堵感が、日本代表を包みました。

フランス大会アジア最終予選は、多くの教訓を残しました。その都度の試合結果に一喜一憂しない、絶望的な状況でも今できることだけに集中する、最後の最後まであきらめない。これらの教訓は歴代の代表に引き継がれ、少しずつ日本代表の形を作っていきました。今回もベスト8を逃しましたが、いつの日かベスト8に入る日本代表を見ることができると思います。それが2022年なのか2026年なのかわかりませんが、楽しみにしたいと思います。


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