TBSが招いた暗黒時代の横浜ベイスターズ /チーム崩壊と赤坂の悪魔

 今回は野球の話を書きたいと思います。長い歴史を持つ横浜ベイスターズは、親会社がマルハニチロからテレビ局のTBSになってから10年間も暗黒時代に突入します。この時期のベイスターズに何が起こっていたのか、なぜファンからTBSが赤坂の悪魔と呼ばれるほど嫌われたのか、その歴史を振り返っていきたいと思います。


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ベイスターズの歴史

横浜ベイスターズの前身は、マルハニチロ(旧大洋漁業)の実業団チームとして、1929年に設立されました。当時の本拠地は山口県下関市でした。戦後の1949年にプロ球団化し、1950年のシーズンから大洋ホエールズという球団名でプロリーグに参加しています。その後、成績が低迷した松竹ロビンスと合併したため大洋松竹ロビンスを名乗っていた時期もありますが、1954年に球団名を大洋ホエールズに戻して本拠地を川崎市に移しました。


1978年には本拠地を横浜に移転し、球団名を横浜大洋ホエールズに改名しました。そして1992年に大洋漁業が社名をマルハニチロに改名したのを機に、球団名を横浜ベイスターズに変更しています。98年には1960年以来の優勝を果たしますが、2001年にはマルハニチロの経営悪化により、球団経営が困難になりました。そこで横浜ベイスターズの第2位の株主だったニッポン放送に、球団株を売却することになります。しかしニッポン放送の親会社のフジテレビがヤクルトスワローズの株を保有していたため、野球規約に違反することがわかりました。こうしたドタバタの末に、第3位の株主であるTBSに球団売却が決まります。TBSを親会社とした新生ベイスターズは、2002年より始まりました。

TBS時代のベイスターズの暗黒

ベイスターズは98年の優勝直後から、資金不足のために十分な補強ができていませんでした。さらに監督の権藤博の放任主義によって内在する問題が放置されたままになっており、新監督の森祇晶の管理野球はチームに馴染まずギクシャクしていました。こんな状態で、チームはマルハニチロからTBSに引き継がれることになったのです。TBS体制のスタートは、すでに波乱含みでした。さらにチームはここから数々のトラブルを引き起こすことになります。

①東海大学問題

2002年のドラフトで、ベイスターズは東海大学の久保裕也獲得に動いていました。久保もベイスターズ入りを希望しており、ベイスターズはドラフトの自由枠で獲得を約束していました。しかしベイスターズは直前に一方的に約束を破棄して、ドラフトでは別の選手を指名します。当然ながら東海大学はこの行為に激怒し、ベイスターズには今後は選手を入団させないことにしました。

※久保裕也


そもそも久保獲得に動いていたベイスターズの長谷川スカウトは、球団の了解も得て久保と東海大に指名する約束をしていたのですが、なぜか球団は立教大学の多田野数人の獲得に動いていました。しかし多田野は2002年の夏頃からゲイビデオに出演していたのではないか?という疑惑が出ており、他の球団は指名を回避していました。立教大学の監督がビデオに出ていたのは多田野であることを認めてスキャンダルが吹き荒れてもベイスターズは獲得に動き、結局はドラフト直前に指名を回避しています。ベイスターズ首脳陣が、なぜ約束していた久保よりスキャンダルの渦中にあった多田野にギリギリまで拘ったのか、理由がよくわからないままでした。

この騒動の翌年、ベイスターズは選手とコーチ4人を放出しました。全員が東海大学出身者であったため、ベイスターズに選手を出さないと宣言した東海大学への報復と言われており、東海大学とベイスターズの亀裂は決定的になりました。

②山下監督辞任問題

2003年、2004年はチームの生え抜きである山下大輔が監督としてチームを率いていました。しかし2年連続で最下位となり、続投するのか辞任するのか話し合いが持たれるはずでした。ところが山下は新聞に「ベイスターズ来季監督は牛島和彦」という記事を見て、球団に問い合わせます。山下監督が自分の契約が延長されないと球団に説明されたのは、その数日後でした。山下は最下位の引責辞任という形でチームを去ることになりましたが、引退会見に同席したのは一軍マネージャーだけで、球団からの説明は全くありませんでした。

※山下大輔監督

この2003年、2004年のベイスターズは誰が監督をやっても苦戦は必至と言われる状態で、山下監督は貧乏くじを引かされたと言われています。当時の球団首脳は、高額年俸を受け取るベテラン選手を「不良債権」と呼び、チームのモチベーションを大きく下げており、また上記の東海大学問題で理不尽なクビを目の当たりにした選手たちの動揺は大きく、ペナントレースを戦い抜くチーム状況ではなかったのです。こうした状況で、山下監督になんの説明もしないままマスコミに次の監督を発表するという山下監督への非礼な態度は、山下監督本人だけでなくコーチ陣にも不快感を与えました。チーム内に不穏な空気が漂い、選手やコーチは球団に不信感を募らせていきました。

③過度なコスト削減と醜聞

2005年シーズンは、牛島監督の元で3位に浮上します。しかし球団側は牛島監督の補強要請を拒否し、さらに契約更改も厳しい態度で臨みました。勝っても年俸が上がらないことを知った選手達のモチベーション低下は激しく、さらに補強もできないためチーム内に絶望感が広がります。この最悪の空気に加え、2006年は主力選手の怪我が相次ぎ、チームは再び最下位になってしまいます。

※牛島和彦

さらにこの頃から球団内と親会社のTBS内で派閥争いが激化し、球団の内部情報が頻繁にマスコミにリークされるようになります。TBS内には球団所有に反対する人達がいて、これらの勢力と球団所有派が争いを始め、さらに球団内部でもオーナー派と反オーナー派の争いが起こっていたのです。これら諸々のことに嫌気がさした牛島監督は、球団に留意されるものの辞任を決めました。

④大矢監督下でのチーム崩壊

ベイスターズは次の監督として、10年ぶりに大矢明彦を招聘しました。しかしチーム内のモチベーションは急降下したままで、かつてのベイスターズを知る大矢の目にはまるで別のチームに映りました。大矢監督はなんとかチームの立て直しを図り、2007年は一時は首位に立つほどの勢いを見せ、最終的に4位でシーズンを終えました。

※大矢明彦(左)

これで盛り返すかと思われた2008年は、投手陣が苦しみます。元々、勝ち星を計算できるピッチャーは番長こと三浦大輔ぐらいしかいなかったのに、その三浦が開幕から出遅れます。開幕3連敗から始まるも内川聖一が最多安打と首位打者を獲得する活躍を見せ、村田修一は本塁打王を獲得します。そのためチーム打率はそこそこ良いものの、出塁率、盗塁、盗塁成功率、失点、被本塁打も12球団ワースト、与四死球はセ・リーグのワーストになりました。その結果、チームに首位打者と本塁打王がいながら、ぶっちぎりのチーム最下位になってしまいます。

これは選手のモチベーションの問題だけではありません。例えば正捕手の相川亮二は肩の怪我と腰痛に苦しみ、2008年の出場はわずかになってしまいました。そんな中、なぜか球団は二番手の捕手である鶴岡一成をトレードに出してしまい、ピッチャーの真田裕貴を獲得しています。この結果、経験のない若手のキャッチャーが経験のないピッチャーをリードすることになってしまいました。ちなみに鶴岡とのトレードで入った真田は、この年は2勝4敗と目立った活躍はできませんでした。最下位の結果を受けて4人のコーチが解任され、チームの主力選手は引退や移籍でチームを後にしています。

※相川亮二

球団フロントは大矢監督になんの相談もなく選手の獲得や放出を決め、チームは戦術を立てられなくなってしまいました。2009年に入ってもチームは負け続け、ファンは大矢監督に責任を求めます。無能と罵られた大矢監督はノイローゼ気味になっていき、自殺を仄めかすような言葉を口にするようになっていきました。5月には大矢監督に無期限休養という名の解任が言い渡され、二軍監督の田代富雄が監督代行に就任しますが、最下位の定位置から抜け出せずに終わりました。

※ダン・ジョンソン

この頃の球団の迷走として、ダン・ジョンソンの獲得が挙げられます。大矢監督は外野を守れる強打者をフロントに求め、そして連れて来られたのがタンパベイ・レイズのジョンソンでした。ベイスターズは外野手として登録していましたが、ジョンソンは外野の経験がない内野守備の選手でした。シーズン終了後に、ジョンソンは内野しか守れないという理由で解雇されています。外野の補強に内野手を連れてきて、内野しか守れないという理由でクビというのは、あまりに理不尽というか支離滅裂でした。

⑤TBS時代の末期

チームは最下位に終わっていましたが、田代監督は選手の面倒見が良く選手達に慕われていました。選手の多くが田代監督の続投を望み、球団側もこれを了承していました。しかし2009年11月に「来季ベイスターズ監督に尾花高夫」と報じられます。球団社長も寝耳に水だったらしく、球団内での派閥争い激化の産物だったと言われています。2010年はこのような混乱から、一時的に最下位から脱出ができるもののすぐに定位置の最下位に戻り、復活の兆しさえ見せないまま最下位に終わっています。主軸だった内川聖一はFA権を行使してホークスに移籍し、一軍ヘッドコーチも責任を取らされる形で辞任させられました。

※内川聖一

2010年にはチームの売却をLIXILとの間で進めていることが報じられますが、条件が合わずに流れてしまいました。球団親会社としてTBSの能力には多くの人が疑問に思っており、球団の売却は必然だと考えられていました。ファンとしては、TBSに対していい加減にしてくれという気持ちになっており、どこでも良いから親会社が変わってほしいという声が出ていたほどです。そして2011年は東日本大震災でオープン戦が中止になるなどの混乱がありますが、定位置の最下位から抜け出せないままシーズンを最下位で終えました。10月には本拠地の横浜スタジアムで中日が優勝を決めるなど、散々なシーズンを終えることになります。

そしてシーズン終了後に、TBSはモバイルゲーム配信などを行っているDeNAにチームを売却することを発表しました。こうして2002年から始まったTBS時代のベイスターズは幕を閉じました。かつては5年連続でAクラス入りし優勝も果たしたチームが、TBS傘下になった途端に10年間で最下位が8回という球団に変貌したことから、TBSがベイスターズをダメにしたというのは定説になっています。暗黒時代と言われる10年間を過ごしたベイスターズは、主力が抜けて残るベテランのモチベーションはなく、若手はプロの自覚がない選手が多数というチームになってしまいました。

暗黒時代の原因

兎にも角にもTBSに原因があると言われています。そもそも野球に愛があったわけでもなく、マルハニチロの経営不信から仕方なく球団を引き受けた経緯があったので、利益を出すことにしか興味がなかったと言われています。簡単に利益が出ないことがわかると、社内の政争に使われるようになり、球団を強くすることより球団を利用して出世を目論む人たちの道具にされました。

ベイスターズへの愛情のなさは、TBSのテレビ放送にも現れていたと言われています。野球中継はドラマの番宣枠として利用され、試合内容よりも番宣の方が多いと言われていました。多くの番組では巨人と楽天の話題の方が多くなり、ベイスターズの話は少なくなっていました。球団の資産価値が成績とともに急降下していくと、さらに扱いはずさんになっていきます。こうした背景があり、フロントはチームに相談もなく勝手に選手を獲得したり放出したりを繰り返し、チームとフロントの溝は広がるばかりでした。

また後にわかることですが、フロントは選手の記録を作っておらず、年俸の査定がどのように行われていたのかわかりませんでした。保守の相川亮二は契約更改で揉めていたものの、女性ファンが多く駆けつけたことから球団は一転して一億円の大台を認めてイケメン査定と揶揄されたりもしました。こうして選手はどうすれば年俸が上がるのかわからず、理不尽な解雇や放出を目の当たりにしていたこともあり、選手のやる気は削がれていきました。またそうしたベテランを見た若手は手本にする選手がおらず、プロ野球選手としてどのように過ごすかを知らないままでした。

TBS時代になる前から選手に派閥があったこともあり、このような環境は派閥の悪い面だけを増長することになってしまいました。チームとして勝つ喜びを忘れ、負けることが常態化し、練習すらまともにやらないようになっていきました。それはWBC日本代表に選ばれた村田が、WBC合宿でプロになって初めて守備練習をやったと漏らすほどだったのです。もはやベイスターズはプロ野球球団のプライドや規律はなく、学生野球よりもモチベーションが低いと言われるほどになります。

まとめ

TBSが親会社になってからの10年間で、3位が1度、4位が1度、それ以外は全て最下位という惨憺たる状況でした。スパイクを履かずに練習する選手、焼肉パーティしてから試合に向かう選手、入場曲をパチスロの曲にしたり、ミーティングでは監督の話を聞かなかったりと、プロの野球チームというより学校のサークルみたいなノリになってしまったようです。ファンから赤坂の悪魔と呼ばれたTBSは撤退し、DeNAに親会社が代わることでベイスターズは復活を遂げるのですが、それはまた別に書きたいと思います。それはDeNAと新監督の中畑清にとって、あまりに厳しい戦いとなります。続きは以下のリンク記事に続きを書きましたので、ご覧ください。


続きの記事
DeNAによるベイスターズの再建 /暗黒時代の終わり



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