ラグビー日本代表の足跡を振り返る /屈辱の日々からの栄光

父親がラグビーをやっていたため、家のテレビではよくラグビーの試合を見ていました。もっぱら大学ラグビーが中心で、早稲田、明治、慶応などの試合を父が気まぐれに解説してくれていました。いつの間にか私も大学ラグビーを積極的に見るようになり、代表戦はワクワクして見ていました。しかし当時の日本代表は、勝つ試合より負ける方が圧倒的に多かったのです。



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第1回ワールドカップ(1987年)

神戸製鋼の平尾誠二、大八木淳史などのスター選手を配したジャパンの前評判は悪くなく「アメリカには勝てる」とか、「イングランドは相性がいい」など、景気の良い見出しがスポーツ新聞を彩りました。国内では空前の大学ラグビーブームで、ラグビーを知らない人の間でも、平尾誠二などスター選手の名前は知られていました。初戦のアメリカ戦は、ジャパンが実力を出せば十分に勝てる相手というのも、間違ってはいなかったと思います。



しかしアメリカ戦が始まると、日本はPGをことごとく外してキッカー不足が露呈します。トライはアメリカと同数でしたが、キックの差で負けてしまいました。イングランド戦は、これまでのテストマッチのイングランドとは別物で、なす術なく大差で負けてしまいました。日本の国内テストマッチでは、強力なパワーでトライを量産したジャパンは、本気のイングランドの前ではボロボロに打ち砕かれ、さらにオーストラリアにも負けて、日本は0勝3敗で大会を終えてしまいました。

※日本対オーストラリア戦


代表監督が直前に辞退するなどの混乱もありましたが、それにしても海外との差を決定的に見せつけられた大会で、あまりに無残で後味の悪い敗退でした。それでも国内の大学ラグビーは大人気で、この頃は代表戦などラグビーのおまけ程度でしかなかったのです。

スコットランド戦の劇的勝利

89年5月に日本でスコットランドとのテストマッチが決まった時、日本の勝利を信じる人はいませんでした。過去にスコットランドとは3戦して全敗で、ジャパンはアジア勢にしか勝てないと言われていました。そんな危機的状況に、日本ラグビーフットボール協会は、代表監督に宿澤広朗を招聘していました。



宿澤は日本ラグビー最高の頭脳と呼ばれ、早稲田の黄金時代を築いたスクラムハーフで、みずほ銀行の支店長を務めるエリートでした。その宿澤はサラリーマンと二足の草鞋で代表監督に就任すると、数々の改革を行います。そして宿澤はテストマッチを予定しているスコットランドに勝てる確固たる自信がありました。

スコットランドはスクラムが弱く、ディフェンスもさほどではないことを見抜き、圧倒的な強さを見せるモールを避けて徹底したラックで攻め込むことにしました。繰り返し宿澤は「ディフェンスさえしっかりやれば勝てる」と言い続け、試合は宿澤の予想通りの展開になりました。28-24という僅差ではありますが、日本は劇的な勝利を遂げたのです。

スコットランドの主力はブリティッシュ・ライオンズに招集されていたため、ほぼ2軍の代表だったというのはあります。しかしどんな形であっても強豪スコットランドに勝った事実は大きく、ジャパンの快挙は大々的に報じられました。そして宿澤ジャパンは、この時のメンバーを主軸にして第2回ワールドカップを戦うことになります。

第2回ワールドカップ(91年)

初戦はスコットランドで、日本国内ではワールドカップ初勝利の声が高まりました。しかしベストメンバーを揃えたスコットランドは、日本でテストマッチを戦った時とは別のチームでした。前半こそなんとか追いすがったのですが、後半は格の違いを見せつけられる展開になり、9-47の大敗に終わりました。



続くアイルランド戦でも一時は接戦を演じますが、終わってみれば16-32で負けてしまいました。この試合は吉田義人が60メートルを超える独走トライが唯一のハイライトだったと思います。見ていて勝てる気がしない試合でした。日本とアイルランドには、点差以上に絶望的な差があるように見えました。

次のジンバブエ戦は、予選プール敗退が決まったので見ていません。しかしジャパンは、この試合でワールドカップ初勝利をあげています。日本のラグビーに、わずかながら明るい兆しが見えた大会でした。

ブルームフォンテーンの悲劇(95年)

新監督に就任した小藪修は「タテ・タテ・ヨコ」のパワーラグビーを提唱し、アジア各国にジャパンの強さを見せつけて行きました。しかし日本が行うパワーラグビーは、ヨーロッパの強豪には全く通用しない事が露呈します。パワーで勝る相手にパワーで対抗しようとするのは無謀だという声が渦巻き、小藪は軌道修正を迫られました。その軌道修正が功を奏し、フィジーに連勝してルーマニアとのテストマッチにも勝利します。

日本では「今度こそワールドカップ予選プール通過」という声が渦巻いていましたが、私は懐疑的でした。関係者の威勢の良い声ばかりが目立ち、代表に復帰した平尾誠二が「あいつら小指の骨が、俺たちの親指の骨くらい太い」と体格差を指摘しているにも関わらず、小藪監督があくまでもパワーラグビーを展開しようとするチグハグさが気になったのです。過去の大会同様に、掛け声だけが虚しく響く大会になる予感がしていました。

※自国開催で初優勝した南アフリカ


第3回ワールドカップ初戦のウェールズに10-57で負けると、なぜかメディアが勝てると書き立てていたアイルランドに28-50で完敗しました。接戦のように報じられましたが、アイルランドは無駄なく試合を展開していて、圧倒的な力の差を感じさせる内容でした。これで日本の予選プール敗退が決まりましたが、私は次戦のニュージーランド戦を楽しみにしていました。今大会最大の台風の目になるジョナ・ロムーを配するオールブラックスを見たかったのです。

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しかしオールブラックスは、主力を温存して控え中心のメンバーを揃えてきます。当然ながらロムーはいませんでした。そしてこの試合は後に「ブルームフォンテーンの悲劇」と呼ばれる歴史に残る試合になりました。テレビ観戦していたエディ・ジョーンズ(元日本代表監督、現イングランド監督)は「日本は、しかるべき準備をして試合に臨んでいないことは明らかでした。努力、勇気、思考。すべてが欠如していた。ワールドカップの戦いだというのに、彼らはやるべきことを何もしようとしなかった」と酷評しています。

※ニュージーランド対日本


またこの時、オールブラックスのメンバーとして試合に出た日清製鐵のケビン・シュラーは、このように振り返りました。

「僕たちは控えメンバーが中心だったから、これが大会でオールブラックスのジャージーを着る最初で最後のチャンスだと思っていた。当然、オールブラックスの名に恥じないプレーをしようと考えていたし、日本に対しても警戒を忘れずに万全の対策を立てて臨んだ。それに対して日本の選手は、僕たちをまるで神様みたいに尊敬していた。そんな気持ちで試合に臨んだから、ああいう点差になった。あんなに差がつくほど、力の差はないと思うよ」

17-145という大差は、未だに破られていない記録です。ジャパンは途中からあまりに無気力で、規律もなく、覇気も闘志も感じられませんでした。私は2度とラグビーの試合なんか見たくないと思い、テレビを消した記憶があります。

第4回ワールドカップ(99年)

97年に平尾誠二が監督に就任すると、それなりの話題を集めましたが、ラグビーは人気の面で完全にサッカーに負けていました。サッカーは96年のアトランタ五輪でブラジルに勝つ「マイアミの奇跡」を起こし、97年はフランスW杯アジア最終予選の動向が国民の注目を集めました。97年11月にマレーシアで文字通りの死闘となったイラン戦、後に「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれる劇的な勝利を迎えると、日本サッカーにとって初出場となるフランスW杯に注目が集まっていました。

※平尾誠二


ラグビー人口が減少し、サッカー人口が爆発的に増える中で、平尾誠二がいかにスターであったとしてもサッカー人気の前には無力に近い存在でした。当時のラグビー関係者は「サッカーでは5万人の観客が協会会長の辞職を求めて合唱したり、選手のバスを襲って暴動寸前にまでなっている。決して良いこととは言えないが、あの熱気の1/10でもラグビーに有れば・・・」と、急速に拡大するサッカー人気と斜陽のラグビーを比較していました。

そんな中、平尾の船出はパシフィック・リム選手権最下位という厳しいものになりました。それでもアジア予選は勝利してワールドカップ出場を決めます。そしてワールドカップは3戦全敗で終えました。私はこの大会を見ていません。この頃の日本は「え?!そんな国もラグビーやってるの?」と言いたくなるような国にしか勝利できず、強豪国でなく中堅国にも歯が立たない状況でした。

※日本対アルゼンチン


前回大会で途中で試合を諦めてしまい、オールブラックスに惨殺された記憶は生々しく残っていましたし、それに引き換え絶望的な相手にも果敢に挑むサッカー日本代表の勇姿の方が何倍も素晴らしく見えたからです。サッカーだけではありません。テニスでは96年に伊達公子がフェド杯で、3時間半にも及ぶ激闘で女王シュテフィ・グラフを敗る快挙を達成し、野球では95年に野茂英雄がメジャーに移籍して伊良部、イチローなどが続いていました。ラグビーは取り残されようとしていました。

99年のワールドカップは、ウェールズ、サモア、アルゼンチンに負けて0勝3敗で終わりました。テストマッチで勝利したサモアはワールドカップでは別のチームでした。日本は全く歯が立たず、いずれも惨敗でした。

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第5回ワールドカップ(2003年)

ラグビーの低迷に危機感を覚えた日本ラグビーフットボール協会は、再び宿澤広朗を強化委員長として招聘しました。宿澤が着手したのは、協会内の学閥の排除でした。宿澤の出身校である早稲田閥が幅を利かせる協会内で、東海大学出身の向井昭吾を監督に指名したのです。

さらに速いラグビーを掲げ、早いスタートや細かいパスの展開などを重視し、体格的に劣る日本の戦い方を模索しました。しかし結果は出ませんでした。弱いスクラムにセットプレイの苦手さを突かれ、次々に敗北を重ねていきます。ワールドカップ出場は勝ち取ったものの、もはや期待する人は協会内にすらいなかったと言われています。しかしチームは向井監督を男にしようと団結し、気迫だけは十分に整っていました。

※初優勝したイングランド


ワールドカップ初戦のスコットランド戦は、前半で6-15とリードされるものの、後半から投入したアンドリュー・ミラーや元木由記雄の活躍で、4点差まで追い上げます。勝ちを意識した日本は、終盤に強引な攻めに出て逆にトライを奪われますが、強豪スコットランドに一歩も引かない激しい闘志を見せて、久しぶりに代表らしい熱くなる試合を展開しました。負けたものの地元紙は日本の戦い方を絶賛し、日本代表の愛称「チェリー・ブロッサム」(桜の花)を「ブレイブ・ブロッサムズ」(勇敢な花)と称えました。以降、日本代表はブレイブ・ブロッサムズと呼ばれるようになります。

次戦のフランス戦では細かく早いパス回しでフランスを翻弄していきます。一時は1点差まで追いつく猛攻でしたが、地力に勝るフランスに29-51に負けてしまいました。しかしスコットランド戦に続き日本の戦いはいくつもの国に評価され、成長ぶりが認められました。しかしその後のフィジー戦は中4日、続くアメリカ戦は中3日と日程が不利に働いたこともあり、再び4戦全敗でワールドカップを終えました。

この結果を受けて、強化委員長の宿澤と監督の向井は辞任しました。

協会崩壊の危機

2004年に新監督に萩本光威が就任し、さらなる飛躍が期待されましたが、欧州遠征でスコットランドに8-100、ウェールズに0-98と大敗し、ルーマニアにも負けたため監督解任論が出ます。協会内を二分する闘争に発展した萩本解任論は、解任派の役員3名が解任される騒動に発展しました。そして揺れるラグビー協会に、さらに激震が走ります。

代表チームのスタッフと選手が、繁華街で傷害事件を起こして逮捕されたのです。監督の萩本も警告の処分を受け、代表チームがバラバラになっているのが浮き彫りになります。そんな中、2005年から遠征試合が始まります。日本は4戦全敗で遠征を終え、萩本の辞任が決まりました。2003年のワールドカップで見せた復調は、もはや影も形もありませんでした。協会は求心力も失っていきます。

※ジャン・ピエール・エリサルド


危機感を覚えた協会は、代表チームの体制を見直して、強化委員長と監督ではなく、ゼネラルマネージャー(GM)とヘッドコーチ(HC)という体制に変えました。HCには初の外国人、ジャン・ピエール・エルサルドを招聘しました。しかし連敗が続いた挙句、エリサリドが無断で企業のマネージャーに就任したためトラブルになり、エリサルドを解任することになりました。GMの太田は、この危機にかつてのチームメイトだったスーパースターのジョン・カーワンにHCを依頼しました。

第6回・第7回ワールドカップ(2007年、2011年)

ワールドカップ間近にHCに就任したカーワンは、日本が4戦をフルに戦い抜くことは不可能と判断し、競合のオーストラリア、ウェールズには控え中心で臨み、フィジーとカナダに主力をぶつける作戦をたてました。オーストラリアに3-91で大敗し、次のフィジー戦に賭けますが31-35で負けてしまいます。さらにウェールズにも大敗して予選プール敗退が決定しました。しかし最終戦のカナダ戦では、後半ロスタイムに同点に追いつき、第2回大会以来の予選プール最下位を免れました。

※ジョン・カーワン


短い準備期間で怪我人が続出する中、最下位を免れたカーワンの実績が評価されて、2011年のワールドカップも指揮をとることになりました。テストマッチを繰り返しながら着実に力をつけてきた日本は、今やティア2の中では強豪となっていきました。一方でティア1とのテストマッチが組めず、本番に不安を残す内容でした。2011年のワールドカップでは、それが露呈します。

フランスに肉薄する戦いを見せたものの、21-47で負け、続くニュージーランド戦は主力を温存して7-83の大敗となりました。勝負を賭けたトンガ戦では日本がミスを連発して負けてしまい、予選プール敗退が決まりました。最後のカナダ戦ではリードしながらミスで自滅する展開でドローになり、1勝もあげることなく大会を終えました。この結果を受けて、カーワンは監督を辞任しました。日本は着実に力をつけていましたが、結果には結びつかないもどかしい時期でした。

第8回ワールドカップ(2015年)

新監督に就任したエディ・ジョーンズは、日本人を主体としますチームを作り、着実に実績を積んでいきました。2013年にはウェールズをテストマッチで敗る快挙を達成し、ニュージーランドにも1点差まで迫る戦いを演じました。2014年には世界ランクを10位とし、ティア2では最上位のチームになります。

※エディ・ジョーンズ


エディはキックを主体とする世界的なラグビーの潮流に背を向け、肉弾戦を求めました。徹底したスクラムの強化に始まり、フルバックにはキックの精度以上に力強い突破力を求めました。五郎丸歩がエディに重宝されたのは、このためでした。そしてワールドカップを迎えます。初戦は2回の優勝経験がある南アフリカで、絶望的な展開になることが予想されました。この日の日本の奮闘を期待した人は皆無だったはずです。

驚くべきことに、日本は南アをスクラムで圧倒しました。序盤は南アに圧倒されますが、日本は強力なディフェンスを見せて得点を許しません。さらに五郎丸のPGで先制します。南アがモールからトライを決めて逆転すると、日本もモールからトライを奪う激しい戦いになります。南アに互角の戦いを挑む日本に声援が集まり、3万人観衆は「ジャパン・ジャパン」と合唱を始めました。



試合は後半に入ってもシーソーゲームになり、後半28分には五郎丸のトライで29-29の同点になりました。後半32分にペナルティを得た南アは、王者らしさをかなぐり捨ててPGを選択して29-32とリードしました。その後も日本は猛攻を繰り返し、終了間際に敵陣深いところでペナルティを得ました。エディ・ジョーンズHCはPGで同点を狙えと指示を出します。しかしキャプテンのリーチ・マイケルはスクラムを選択しました。弱小国の日本が王者南アと引き分けるのはミラクルな出来事です。しかし日本は同点のチャンスを捨てて、勝利に拘りました。3万人の観衆は日本の勇気に興奮し、総立ちになって日本に声援を送ります。

エディは指示を無視され怒りのあまり、無線機を叩き壊しました。選手たちは冷静さを失い、無謀な賭けに出ようとしていると怒ったのです。しかしキャプテンのリーチ・マイケルは全く違うことを考えていました。南アの疲れはピークに達し、スクラムを嫌がっているのは明らかでした。ビッチ上の選手は誰もが勝てると考えていて、PGの選択は最初からなかったのです。スクラムで押し込むと、ゆるくなった南アのプレッシャーを掻い潜り、No8のマフィからウイングのヘスケスに繋いでトライを決めました。ワールドカップ 史上最大の番狂わせが起こりました。



イギリスのデイリーテレグラフは「スポーツ史上最大の番狂わせ」と報じ、BBCのコメントには「ワールドカップ 史上ではなく、ラグビー史上最高の試合だ」とありました。ワールドカップ で1勝しかしたことのないチームが、優勝2回の最強豪国を打ち負かした事実に、世界中のラグビーファンが興奮し、海外では「日本は2番目に好きな国」との声が広がりました。さらに南アのHCも「日本は途方もなく見事だった」と絶賛して日本の勝利を称えました。

劇的勝利から中3日の日程で行われたスコットランド戦は、勝利の美酒が抜けきらず二日酔いの選手がいる中での試合になり、日本は負けてしまいます。サモアとアメリカに勝利し、3勝しながら予選プールを突破できない悔しさを味わいますが、日本の南ア戦での勝利はその後も語り継がれることになりました。

当時、イギリスにいた日本人の話だと、誰かれ構わず話しかけられ、ハイタッチを腕が痛くなるまで求められ、「頼むから今夜は日本人に一杯奢らせてくれ」と言われ、ラグビーなんか全く興味がなかったのに英雄のように扱われて困惑したと言っていました。この南ア戦の勝利で、日本は次回のワールドカップ を開催するに値する国だと認識されました。

第9回ワールドカップ (2019年)

予定通りエディ・ジョーンズは監督を退任し、後任はジェイミー・ジョゼフに決定しました。日本でのホームステイ経験があるジョゼフは、日本人の心情を理解することと、世界的潮流であるキックを多用したラグビーを掲げました。またパワーを重視して、強靭なフィットネスを絶え間なく要求していきます。

初年はアルゼンチン、ウェールズ、フィジーに負けてしまいますが、その後は徐々に成績を上げて、2019年のパシフィック・ネイションズでは優勝しました。ジョゼフはスーパーラグビーに参加している日本チームのサンウルブズを中心に代表を組織し、なるべく長い時間を選手が過ごすことで一体感を求めました。



こうして開幕したワールドカップで、初戦のロシア戦を4トライで一蹴すると、続くアイルランド戦でも勝利しました。各国のメディアが再び日本が起こした奇跡に興奮する中、NHKのアナウンサーは「もう奇跡とは言わせない!」と、日本の実力がティア1と同等であることを訴えました。サモアにも勝利し、さらに台風で心配されたスコットランド戦にも勝利し、日本は首位でベスト8に進出しました。ワールドカップ 初出場から30年以上の時をかけて、ついに予選プール突破を成し遂げたのです。

変わった協会

80年代、ラグビーはサッカーよりも人気スポーツでした。大学ラグビーは圧倒的で、国立競技場を満員にすることが何度もありました。一方、サッカーにも熱烈なファンがいましたが、大学ラグビー以上の盛り上がりを見たことがありません。高校、大学、社会人のどれれ一つとして、大学ラグビーの熱気には勝っていなかったと思います。

しかしJリーグが設立された頃からサッカー人気が逆転し、フランス:ワールドカップ出場をかけたジョホールバルでのイラン戦は、ちょっとした社会現象になりました。サッカー協会には潤沢な資金が集まり、彼らはその資金を代表の強化に投資していきます。ビジネスクラスで移動し、専用の食材とコックを帯同させて現地に1週間前から乗り込むなど、ラグビーでは夢のような環境でした。遅れをとったラグビー協会は、ようやく改革に乗り出します。

早稲田大学からサントリーで活躍し、日本代表として戦った今泉清は、90年代のラグビー協会の乱れを激しく批判したことがあります。ワールドカップで試合を見ることなく現地でゴルフばかりする役員や、観光旅行気分で帯同する役員、さらにコーチからアムウェイを勧められるなど、協会にはワールドカップで勝つ気概がない時代がありました。サッカー協会がアジア予選を修羅場と想定し、代表監督には修羅場をくぐり抜けてきた世界的な人物を求めて奔走していた頃、ラグビー協会では早稲田の卒業生が持ち回りで監督やコーチに就任していました。それで勝てるはずがありません。

※今泉清


こうした過去を経て、日本は本気で勝つための準備を行なってきました。本気で勝つための準備をしても、簡単に勝つことはできません。負けるのが日常となったラグビー日本代表は、世間的な注目もメディアの取材もない中で、孤独な準備を進めてきたのです。

まとめ

日本は間違いなく強くなりました。今回の成績で、日本をティア2に入れたのが間違いだという声もあるほどで、もはや日本は強国の一端と見られています。そして今大会を通じて、ラグビーの面白さが日本中に伝わったのは大きいと思います。以前のように「ラグビーは日本人には向かない」と言う人は、もういないでしょう。さらなる発展が待っているはずです。


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