デニムとジーンズの歴史をおさらいしてみた

ジーンズは戦後の日本に広がり、人気が上がったり下がったりはしますが、なんだかんだで定番の普段着として定着しています。今回はジーンズの歴史を振り返ってみたいと思います。改めて歴史を振り返ると、あまり知られてないこともたくさんありますよ。



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デニムの起源

諸説あってなにが本当かわかりにくいのですが、デニムの起源はフランスというのが最も有力です。17世期のフランスのニームで作られた綿織物が、その起源のようです。その生地はセルジュ・ド・ニームと呼ばれていて、これがデニムの語源になったそうです。

この生地はイタリアのジェノバを経由して世界各地に輸出されていきます。ジェノバには丈夫なセルジュ・ド・ニームで作ったズボンを履く人が多く、それらはジェノイーズ(ジェノバ人のもの)の総称で呼ばれていました。この言葉がジーンズの語源になったと言われています。

※イタリアのジェノバ


このセルジュ・ド・ニームは、ジェノバ経由でアメリカにも輸出されていました。ジーンズはアメリカで花開きますが、17世期のイタリアにはすでに存在していたことになります。ジーンズの歴史は100年程度で考えられがちですが、はるかに長い歴史を誇っています。

インディゴ染料の謎

ジーンズが青いインディゴ染料で染められているのは、アメリカの開拓地でガラガラヘビを寄せつけないために使用されたというのが、まことしやかに語られていました。しかし17世紀の絵画にはインディゴブルーで染められたデニム生地が確認されており、古くからインディゴが染料として使われていたのがわかっています。

※天然のインディゴ


天然のインディゴ染料には、ヘビや虫が嫌がるピレスロイドという成分が含まれており、それがガラガラヘビを寄せ付けない効果があったと言われていますが、もともと含まれる量が少なく、さらに洗うことで色落ちするデニムにどれほどの効果があったかは微妙なところです。言われるほどの効果があったなら、ジーンズの染め直しなどの仕事も繁盛したはずですが、そのような記録は見当たりません。この逸話は、長いジーンズの販売の歴史の中で、後付けで生まれた物語なのかもしれません。

リーバイスの登場

ドイツ移民のリーバイ・ストラウスは、1853年にサンフランシスコで雑貨や生地を扱う店を始めます。やがてリーバイはテントのキャンバス生地を使ったパンツを港湾労働者向けに作るようになります。

※リーバイ・ストラウス


ラトビアに生まれ、アメリカに移民としてやって来たヤコブ・デイビスは幼い頃から仕立て屋として働いていました。彼はニューヨークからメイン州に移り、サンフランシスコへと渡り歩き、カナダに住んだこともあります。やがて彼はサンフランシスコに戻ると、すぐにネバダ州のリノにテーラーショップを立ち上げました。ヤコブは鉄道労働者向けに作業着を作りますが、その生地はサンフランシスコのリーバイ・ストラウスの店から仕入れたダック生地やデニムでした。

※ヤコブ・デイビス


1870年に、ヤコブは女性から注文を受けます。木こりの夫のために丈夫なズボンを作って欲しいとの依頼で、擦り切れて縫い目がほどけるのをなんとかして欲しいそうです。そこでヤコブはポケットなどを銅のリベットで補強し、頑丈なズボンを作りました。これが大ヒットして、労働者の間に広まります。1871年にはデニムでこのパンツを作るようになり、やがて需要に追いつかなくなってきました。



ヤコブはリベット留めには大きな潜在的な価値があることを感じました。そこで特許を取得することを考え、リーバイ・ストラウスに相談を持ちかけます。リーバイは了承して1873年に共同名義で特許を取得すると、工場を設立しました。ヤコブはその工場の監督になりました。こうしてリーバイスのジーンズは世に出ることになります。


※ジーンズの永遠の定番ともいえるリーバイス501


その後のヤコブ・デイビス

リーバイスの工場で働いたヤコブの息子サイモンは、彼の後を継いで仕事をしていました。しかし1935年にサイモンの息子ベンジャミンと共にブランドを立ち上げます。息子の名前を冠してベン・デイビスという社名でサンフランシスコに設立しました。



ベン・デイビスも長らくワークブランドとして親しまれてきましたが、90年代にビースティーボーイズが着用したことで、ストリートファッションとしても人気が高まり、現在も多くのミュージシャンに愛用されています。




ブルーベル社の旋風

ワークウェア市場で最大手になっていたブルーベル社は「世界のワークウェアメーカー」を掲げて業務を拡大していました。大戦中の1943年にケーシー・ジョーンズ社を買収し、戦後まもない1947年に同社から取得したブランド名「ラングラー」の名前でジーンズを販売します。ブルーベル社は単に新たなジーンズブランドを立ち上げたのではなく、ジーンズのデザインにデザイナーを登用しました。これはそれまでのジーンズにはない試みでした。


※ラングラーの原点 11MWZ


ブルーベル社はジーンズを作業着としてではなく、ファッションとして売り出すことにしたのです。同社はスローガンを「世界のワークウェアメーカー&カジュアルウェアメーカー」に変更し、ラングラーのデザインにはハリウッドの西部劇でテイラーをやっているロデオ・ベンを迎えました。こうしてラングラーは、作業性ではなく見た目の美しさを追求したジーンズが誕生しました。

日本に上陸したジーンズ

進駐軍が持ち込んだことから、戦後の日本でも広まりました。最初にジーンズを履いた日本人は、吉田茂の懐刀と言われた白洲次郎だとされています。1950年に吉田茂総理大臣の特使として池田勇人大蔵大臣とアメリカに向かうのですが、その時に機内でTシャツとジーンズに着替えたと言われています。

※白洲次郎とジーンズ


しかしジーンズは進駐軍が日本に持ち込んでいたのですから、戦後まもない頃から日本に存在しました。戦後5年近くも経ってから履いた白洲次郎のエピソードで、日本で初めてジーンズを履いた男とするのには無理があると思います。ちなみに白洲次郎が履いたジーンズは、リーバイスのものだったようです。

1960年代に入ると輸入規制が緩和されて、ジーンズも輸入されるようになります。1963年には大石貿易が、アメリカのキャントンミルズ社のデニム生地を輸入して、製造を始めています。そのジーンズはキャントンのブランド名で販売されました。この時に製造を任されたのが岡山県に本社を置くマルオ被服で、彼らは1967年にビッグジョンというブランドを立ち上げることになります。


※ビッグジョンのロングセラー M3ニードルレッグ


日本では高度経済成長の乗る形でジーンズが普及していったため、労働着というよりカジュアルなファッションアイテムとして若い世代に浸透していきます。アメリカ映画の影響も大きく、ジェームズ・ディーンらの銀幕のスターのファッションは、日本にも大きな影響をもたらしました。そしてこれらハリウッド映画の影響で、ジーンズは社会への反抗としても扱われるようになります。

阪大ジーパン論争

1977年5月、大阪大学で英米文学の授業を行なっていたフィリップ・カール・ベータ氏は、遅れて入ってきた女子生徒に対して、激しい英語で「ジーパンを履いた女子生徒は出て行け」と言い、受講を拒否しました。その女子生徒の友人たちが、事実確認のためにベータ氏を尋ねると「男子学生がジーパンを履くのは理解できる」としつつも「女子生徒がジーパンを履くのは不誠実。そのような生徒と話すことは何もない」と言い切りました。

これを聞いて憤慨した学生らがジーパン姿で女性差別だと猛抗議を始め、ベータ氏のもとに詰めかけました。これは瞬く間に話題になり、阪大にはマスコミがやって来て全国的な話題になりました。ベータ氏は「10年前なら君達と議論したろう。私は老いた。君達の意見と合わないなら辞めるしかない」と敗北宣言ともとれるコメントを残して退職しました。

この騒動には賛否両論の様々な声が全国から集まり、女性の服装が議論されることになります。娘が股間のジッパーを上げてズボンを履く様子に眉をひそめていた親たちはベータ氏に喝采を送り、自由を訴える若い世代は阪大生徒の抗議を支持しました。この頃は学生運動は風前の灯火でしたが、ベトナム戦争をはじめ、アメリカにも盲従しているように見える日本政府への苛立ちなども加わり、ちょっとした社会論争になりました。

エドウィンの全盛

80年代に入ると、日本国内のジーンズ販売はエドウィンがトップになりました。エドウィンは1947年に設立した常見米八商店から発展したブランドです。当初は米軍の払い下げ品を販売していました。63年にワンウォッシュ加工のジーンズを発売すると、75年には中古加工を実現したオールドウォシュ、81年にはストーンウォッシュを発売しました。さらに80年代にはケミカルウォッシュ、ブリーチなどさまざまな技術を投入して人気を高めていきます。また品質管理を徹底して、不良品の返品を積極的に求めるなどの活動も展開して、名実ともに日本のトップブランドになりました。


※80年代からのロングセラー インターナショナルベーシック


海外の高級ブランドも80年代にはデニム生地に着目するようになり、ジーンズは労働着から脱してカジュアルファッションのメインストリートに出るようになります。エドウィンはアメリカでリーバイスと並ぶ古参ブランドのリーの販売権を有し、さらに女性向けブランドのサムシングなど大規模にブランドを展開して、80年代の日本のジーンズを牽引していきます。


※リーの定番ジーンズ♯200


しかし氾濫しすぎたジーンズは、やがて没個性のシンボルになっていき、他人と差を付けたい人達によってビンテージブームが起こります。90年代前半には、ジーンズが100万円で取引されるなど空前のビンテージブームが起こり、やがてそのブームが去るとジーンズは格好悪いファッションの1つと目されるようになりました。

壊滅危機を迎えた岡山

ジーンズの人気がなくなった21世紀初頭に、日本最大のジーンズの産地である岡山県は危機を迎えていました。工場の閉鎖が相次ぎ、失業者が増えていき、もはやデニム産業に未来はないと言われました。ジーンズの人気は80年代にピークを迎えると、90年代はビンテージブームが起こり、その後はジーンズを買わない世代が台頭していて古い世代のファッションと思われていました。

岡山を代表するジーンズブランドのビッグジョンは、2002年にアメリカの大手ワークウェアブランドのディッキーズと契約を結び、日本でのディッキーズブランドのワークパンツの販売と製造を始めました。2011年には岡山のもう一つの代表メーカーだったボブソンが倒産しました。ファストファッションの台頭で売り上げが下がる中、東日本大震災による受注減が決定打になりました。

こうした危機に瀕する中、岡山県倉敷市ではジーンズによる町おこしが始まりました。メイド  ・イン・オカヤマを掲げ、倉敷市内にはジーンズストリートが出来上がり、国内だけでなく海外に向けて岡山のジーンズの歴史を発信していったのです。道路はインディゴブルーに染められ、駅員の制服はデニムシャツになり、建物の外観、タクシーの外装、自動販売機などがデニム生地で覆われ、この過剰な運動は徐々に話題になっていきました。



岡山製をうたう国内ブランドは、安価な大量生産品ではなく品質にこだわり抜いた高価格帯に移行していき、その認知度を徐々に上げていきました。ジーンズは売れなくなったが、世界から消えたわけではない。欲している人は世界各地にいて、その人達に岡山のブランドを知ってもらうことになりました。また昔ながらの経営の見直しも始まり、老舗のジョンブルは投資ファンドに経営を委ねるなど、さまざまな変化を見せています。


※桃太郎ジーンズ

まとめ

駆け足でジーンズの歴史を追ってみました。多くのメーカーが工夫を凝らして販売し、この100年以上の激動の歴史を辿ってきたので、ここに書ききれなかったエピソードも多くあります。それらは、また追々書いてみたいと思います。

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