日本の競泳を変えた日(2) 千葉すずのレジスタント

※この記事は2016年8月21日に、前のブログに書いた記事の転載です。

前回記事:日本の競泳を変えた日(1)を読む

日本で吹き荒れるバッシングに嫌気がさした千葉すずは、大学を卒業するとアメリカに渡りました。自分の名前を英語にした「ビクトリー・ベル」という会社を立ち上げ、水泳教室を開いて生活を送ります。そんな千葉の元に、競泳界の大物のバド・マカリスターから連絡が入りました。「アメリカにいるなら、カナダにおいでよ」

※取材に対して横柄な態度をとることがあり、メディアに嫌われていました。




バドとはアトランタ五輪の前からの仲で、コーチをしてもらった経験もあります。金メダリストを育てた名伯楽は、千葉に「タイムを気にせず水泳を楽しもう!」と教えた人物でもありました。日本のイトマンで、朝から晩までタイムのことを言われ続けた千葉にとって、それは新鮮な体験だったのです。

千葉を呼び寄せたバドは、教え子のジャネット・エバンスも呼び、2人で競争するよう言います。小柄ながら圧倒的な強さで金メダルを4個も獲得した伝説的なスイマーの登場に、千葉は緊張しますが、バドは楽しむことだけを考えろと促します。そして普段より遥かに遅いタイムで負けてしまった千葉に、バドは諭しました。

※ジャネット・エバンス

「オリンピックでベストの記録を出す選手は、全体の2割もいない」
「すずはジャネットに負けたんじゃなく、ジャネットに緊張する自分に負けたんだよ」
「水泳を楽しめ。ジャネットと泳ぐのは怖いことじゃなく、楽しい経験のはずだろう?」

そしてこうも言いました。
「すずは今でも十分に、メダリストになる実力を持っている」

半信半疑でバドに言われるままトレーニングを再開した千葉は、あっという間に日本記録を上回るタイムで泳ぐようになりました。千葉は「バドの魔法」と言い、バドは「本当のすずの姿」と言います。こうして千葉の復帰が決まりました。2000年のシドニー五輪でメダリストになるための復帰です。

1999年の日本選手権で復帰した千葉は、圧倒的な強さと速さで優勝し、日本記録を更新したことで水泳界に衝撃を与えます。さらに複数のレースで日本記録がマグレではないことを証明し、一気に五輪代表候補の筆頭になりました。しかしここから再び、水連との確執が始まります。

※突然の復帰は大きな話題になりました。

この時の千葉にとって、バドの指導は生命線でした。ギリギリまでカナダでトレーニングを積み、代表選考レースに出場することを希望します。しかし水連は日本での合宿に参加することを要請し、千葉に早期の帰国を要求します。朝から晩までタイムを競わせる日本のトレーニングに意味を見出せず、自分のことを知らないコーチに最終調整を任せることに不安もありました。しかし水連と何度も行われた交渉の末に、千葉が折れて帰国することになりました。そして日本で開催される代表選考レースを迎えます。

「私の本番の舞台は9月(オリンピック)。他の選手は知らないが、私にとって日本選手権は目標ではない」

大会当日のインタビューでのこの発言は、話題を呼びました。ノルディック複合競技の荻原健司選手は「かっこいい。一度でいいから自分も言ってみたい。全ての準備が完璧にできていないと言えない言葉」と称賛しましたが、水連は「他の選手に失礼だ」と不快感を示しました。多くのメディアも、千葉が全力で戦わないと宣言したことにスポーツマンシップに欠けると報じました。再び千葉バッシングが始まります。

※荻原健司

しかしレースは全力を出さない千葉が、あっさり優勝しました。半年後のオリンピックに体のピークを持ってくるには、6割程度の仕上がりで選考会に臨まなければならず、A標準記録を超えつつ優勝するという難しい挑戦に千葉は打ち勝ったのです。この頃、このようなピーキングの考え方は日本では希薄でしたが強豪国では常識で、綿密な計算を行なって成功させたのです。

しかし水連の発表に、千葉は衝撃を受けます。五輪代表メンバーに、優勝した千葉すずの名前はありませんでした。

続きます。次回で最終回です。


次回の記事:日本の競泳を変えた日(3) 千葉すずの裁判


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