益子直美と斉藤真由美

※こちらは以前の「はねもねの独り言」に書いていた記事です。

新宿の東急ハンズに行ったら、元バレーボール全日本代表の益子直美さんがトークショーをやっていました。45歳とは思えない若々しさがあり、テレビで見た通りのきれいな人でした。もちろん背は高かったですね。益子さんの選手としての全盛期は90年前後でしたが、オリンピックに出場することはなく、あっさりと現役を引退した印象があります。引退は体のことやメンタル面など様々な要因があったのでしょうが、当時、私は引退を聞いた時に斉藤真由美選手が一因ではないかと思いました。




斎藤真由美とは

斉藤真由美さんは、益子さんと同じくイトーヨーカドーに所属し、全日本代表として活躍した選手です。1971年に東京都練馬区に生まれで、幼い頃に両親が離婚したため、母親と兄の3人で幼少時代を過ごしています。兄は運動神経抜群で甲子園を夢見ていたそうですが、中学を卒業すると同時に家計を支えるために就職しています。その兄が真由美さんにバレーボールを勧めたそうです。

練馬中学のバレー部に入るとすぐに頭角を現し、チームを牽引する存在になっていきます。バレーボールにかかる費用を母と兄が捻出してくれるのが心苦しかったそうで、中学を卒業したら就職して家計を支えるつもりだったようです。しかし母と兄は真由美さんにバレーボールを続けることを望み、そんな時に中村高校(江東区)から特待生として誘われることになります。


※斎藤真由美

1年生ながらすぐにスターティングメンバーに入り、インターハイ3位の好成績を残します。しかしその後、真由美さんは中村高校を退学しました。退学の理由はチームに馴染めなかったとか、国体メンバーに選ばれなかったことへの抗議とか、苦しい家計ながら自分を支えてくれる家族に申し訳なかったとか、さまざまなことが言われますが本当のことはわかりません。中退した真由美さんは、就職先を探すことにしました。

真由美さんが中退したと聞いて、すぐに連絡してきたのがイトーヨーカドーでした。就職して働きながらバレーボールができるという理想的な環境に、真由美さんは入社を決めます。この時、声を掛けてきたイトーヨーカドーの監督は元中村高校の監督なので、中村高校がイトーヨーカドーに真由美さんの退学を連絡したのではないでしょうか。そしてイトーヨーカドーに入団した真由美さんは、実業団でも瞬く間に頭角を現します。

人気の爆発と戸惑い

イトーヨーカドーの主力選手になり、人気でも実力でもトップ選手に仲間入りします。1988年に全日本メンバーに選出されると、テレビ放送で真由美さんの活躍が報じられるようになり、その人気が爆発しました。まだ幼い顔つきとその容姿から、当時人気絶頂のタレントだった後藤久美子さんのニックネームをとって「バレーボールのゴクミ」と呼ばれるようになります。当時の全日本の顔は、中田久美さんや大林素子さんでした。しかし真由美さんが全日本に選出されるようになると真由美さんに人気が集中し、試合が終わると出待ちの数千人のファンが関係者口に殺到して、警備会社だけでは安全を確保できなくなり警察も出動するのが当たり前になります。

東京体育館の小さな出入り口に3千人が声援というか金切り声を上げて殺到し、警察と警備員がもみくちゃにされる真由美さんを必死にガードしながらバスに乗り込む姿はニュース映像にもなり、時には他の全日本選手をバスに向かわせて囮にして、真由美さんだけ別の出入り口から脱出することもあったようです。あまりの狂乱に本人も悩むことになるのですが、そんな本人の気持ちに関係なくスポーツ専門誌だけでなく一般誌も真由美さんの特集を組み、テレビ番組への出演も殺到しました。

現在もスポーツ選手やアイドルなど、熱狂的な人気を誇る人はいますが、この頃の真由美さんほどの狂乱を見ることありません。全日本の試合会場では真由美さんの一挙手一投足に声援が上がり、その姿を見て感涙を流すファンがいました。狂気的な人気と騒動に真由美さんは戸惑いつつ、務めて冷静に対応していましたが、その姿がクールだとさらに熱狂を生んでいきました。そのため全日本のテレビ中継は、真由美さんが出るか出ないかでテレビの視聴率が大きく変わり、全日本の試合には毎回出場することになります。

怪我に苦しんだ斎藤

177cmの身長から3mを超える打点から放たれる彼女のスパイクは、全日本の大きな武器となりました。そして真由美さんが全日本デビューした88年は、9月に開催されるソウル五輪の代表を決める壮絶なサバイバルレースが行われている時期でもありました。真由美さんも五輪代表枠を目指していたのですが、連戦が重なると利き手の右腕に痛みが走るようになります。治療に行きたかったのですが、練習に取材にテレビ出演に、試合日程が詰まっているため、当時の全日本代表監督は病院に行くことを拒否しました。


痛みを誤魔化しながら試合に出続け、さらに痛みが激しくなりますが、それでも治療に行くことを許可されませんでした。数年前にも女子の監督だった柳本監督が吉原選手が病院に行くことを絶対に認めず、吉原選手は全日本を外される覚悟で医者に行ったというエピソードがありましたから、1988年なら当然のようにそういうことがあったでしょう。真由美さんが戦線離脱するとなると視聴率に影響があるだけでなく、チームの主軸の一つがいなくなることを監督は恐れたわけです。


こうして治療することも戦線離脱も認められない真由美さんは、ついにスパイクが打てないほど痛みが走るようになります。すると「スパイクは左手で打てばいい」と言われ、さらに試合に出ることを求められます。しかしもはや体はガタガタでした。着替えも困難になった真由美さんは、ソウル五輪代表メンバーを辞退しました。しかし協会からは連日のように自宅に電話が入り、ベンチに座っているだけで良いからソウルに行ってくれと言われます。仲間が必死に代表入りを賭けて競い合っている中で、ベンチを温めるためにソウルに行くつもりはありませんでした。

ファンの熱狂、協会関係者の強い圧力、そして治療もできないままプレイを続けているため満足できる結果も出せない自分に、苛立ちと自己嫌悪が重なってノイローゼになっていきます。この時、真由美さんはまだ17歳でした。ビルの屋上にふらふらと上がり、地面をぼーっと見つめている自分にハッとしたこともあったそうです。この時、落ち込んだ真由美さんを慰め、なんとか全日本入りをさせようとする協会関係者に抗議し、追い払ってくれたのはお兄さんだったようです。

利き手の右腕に痛みが走るようになり治療を願い出ますが、当時の全日本監督から拒絶されたそうです。数年前でも女子の監督だった柳本監督が吉原選手が病院に行くことを絶対に認めず、吉原選手は全日本を外される覚悟で医者に行ったというエピソードを話していましたから、90年頃なら当然のようにそういうことがあったでしょう。斉藤選手が戦線離脱するとなると視聴率に影響があるだけでなく、チームの主軸の一つがいなくなることを監督は恐れたわけです。

さらなる悲劇と復活

ソウル五輪に出なくとも、真由美さんの人気は健在でした。89年のワールドカップでは最高殊勲選手に選ばれるほどの活躍を見せましたが、この後は怪我に苦しみ離脱を繰り返します。全日本に選出されるたびに怪我をするようになり、イトーヨーカドーにも負担をかけてしまい苦しむようになり、成績も低迷していきました。こうした不調の中、ようやく本格的な治療ができるようになり、通院が始まります。そして医者に「いつからバレーボールができますか?」と質問したところ、衝撃的なことを言われてしまいます。「バレーができるかどうかではなく、普通の生活ができるかを心配をしなさい。一生、障害者として生きることになるかもしれない」

まだ20歳そこそこの真由美さんの体は、無理に無理を重ねたためにボロボロになっていました。そこで1993年、傷心の斉藤選手は実家に帰りリハビリに専念することにしました。しかし兄が運転する車に乗っている時に交通事故に遭ってしまいます。居眠り運転の車が突っ込んできたのです。2人は大怪我を負って病院に搬送されますが、兄は自分のせいで真由美に大怪我をさせたと号泣したそうです。事故には何の責任もなく、いつも自分を守り続けてくれた兄の姿に真由美さんも泣き崩れ、自分がバレーボールをやらなければこんなことにならなかったのではないかと自分を責めたこともあったそうです。

これ以降、斎藤選手は事故の前の怪我のリハビリと、事故による怪我のリハビリを同時に行うことになり、4年近くをリハビリで過ごすことになります。そしてこのリハビリで、驚異的な回復を見せます。自分のせいだと嘆く兄に、自分は全然大した怪我はしていないし、バレーボールだってまだまだできると兄に見せるためにリハビリに励んだそうです。そして96年にイトーヨーカドーに復帰し主将を任されました。かつての華やかさは消え、スパイクの鋭さも消えていました。しかし自分の人気と過剰な評価に悩む姿も消え、チームを牽引する力強い選手となっていました。

その後、ダイエー・オレンジアタッカーズに移籍してチームを優勝に導きました。その間にお兄さんが過労で倒れ、脳腫瘍が見つかって入院することになり、真由美さんはバレーボールを辞めて看病する決意をしましたが、兄に説得されてバレーボールに戻っています。97-98シーズンの優勝は最高殊勲選手の選出に繋がり、Vリーグに強い存在感を示しました。以降はパイオニアに移籍して優勝を経験すると、2004年に引退しています。

益子直美の引退

そして益子選手が引退を表明したのが、92年でした。斉藤選手が治療のために戦線を離脱した頃なのです。テレビでは斉藤選手に替わって益子選手をアイドル扱いしていました。同じくイトーヨーカドーに在籍していた益子選手は、斎藤選手の状態を近いところで見ていたはずです。このままでは斉藤選手のように使い捨てにされるかもしれない、そんな風に考えたのではないか?と唐突な引退のニュースを聞きながら、私は父と話した記憶があります。

※益子直美


真実はわかりませんが、益子さんを見ると斉藤さんを同時に思い出すんですよね。益子さんは02年に12歳年下でロードレーサーの山本雅道さんと結婚しています。40歳と28歳の結婚で、プロポーズされた時に「こんなオバさんでいいの?」と言ったそうですが、東急ハンズのトークショーでも旦那さんの話になるとノロけていました。今の益子さんが幸せそうでなによりです。





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COMMENT:
AUTHOR: jojo
DATE: 07/12/2011 04:40:08
斉藤さんという方のことはよく知りませんが、こうした「明らかに誤ったスパルタ指導」というのは、日本スポーツ会に根強く残っているんですよね。科学的に間違った回数の筋力トレーニングをさせる高校野球監督、寮生に自殺者を出す戸塚ヨットスクール・・・。
本来、合理主義者が多いはずの国だと思うんですが、なんでこうなるんでしょう?
益子さんは幸せそうでよかったですね。

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COMMENT:
AUTHOR: はねもね
DATE: 07/19/2011 21:22:23
★jojoさん
以前テレビで30人31脚の競争をやっていましたが、ある小学校では児童の腰にゴムロープをつけて、1人が先に走りゴムにつながれたもう1人が引っ張られながら走る練習をしていました。限界を超えた走りができるのでスピードのある筋肉を養うには効果的な方法ですが、筋肉の限界を超えるために怪我も多くなります。一流のアスリートでもドクターやトレーナーと相談しながら行なう練習を、成長過程の子供にやらせるのは狂っていると思いました。

それに怪我をしたら人は休むべきだと思います。怪我をおして戦う姿勢を美化しすぎる風潮も危険な気がしますね。小泉元総理に「感動した!」と言われた貴乃花も、あの一番が引退の原因になりましたしね。
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コメント

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