井上尚弥はファイティング原田を越えたのか /ボクシングの常識外の強さ

 日本ボクシング史上最高のボクサーと言われている井上尚弥ですが、「いやいや辰吉丈一郎の方が」「ファイティング原田の偉業にはまだまだ」といった反論もあり、ボクシング好きはこれらの話を酒の肴にして楽しんでいます。私もこれらの質問をされることが多いのですが、井上尚弥はファイティング原田を越えたと思うことにしました。時代が違う王者を単純比較することはできませんし、私の意見が正しいとも言いません。尺度を変えるとさまざまな結論が出るでしょう。そこで私は「常識外」という尺度を用いて、井上尚弥がファイティング原田や辰吉丈一郎など歴代の日本人世界王者を越えて最高のボクサーだと考えるようになりました。

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ボクシングの常識とは

「常識外」という尺度を使うには、ボクシングの「常識」をはっきりさせないといけません。ボクシングは体重制の競技ですが、それは体重が重い方が有利だという前提があるからです。フライ級で無敵を誇っても、ヘビー級には敵わないというのがボクシングの常識です。ですから階級の壁を超える選手は賞賛を集め、複数階級制覇がトレンドになったのです。80年代にトーマス・ハーンズとシュガー・レイ・レナードが5階級制覇を成し遂げてから、多くのボクサーがこの記録に挑んでいきました。

※レナード(左)、ハーンズ(右)

重い選手の方が強いなら、ボクシングはヘビー級だけで興行が成り立つような気がします。しかし現実にはミニマム級からヘビー級まで17階級(2020年にブリッジャー級を制定したWBCでは18階級)があり、各階級でボクシング興行が行われています。そして最も盛り上がるのはヘビー級よりもウェルター級からミドル級ぐらいまでの中量級だったりします。実際にこれまで最もファイトマネーを稼いだフロイド・メイウェザー・ジュニアは、スーパーフェザー級(58.967kg)からスーパーウェルター級(69.853kg)で戦い、最も稼いだマニー・パッキャオ戦はウェルター級(66.678kg)で行われています。なぜ最も強いヘビー級よりも中量級の方が盛り上がるのでしょうか。

※フロイド・メイウェザー・ジュニア

これにはもう一つのボクシングの「常識」が関係します。ボクシングでは階級が上がるほどパワーが上がると同時にスピードがなくなるのです。そして階級が下がるとパワーがなくなる代わりにスピードが増していきます。アメリカのヘビー級の試合には、腹の出た大男がモッサリしたパンチを打ち合う試合が珍しくなく、パワーがあっても決して面白いとは言えないことが多いのです。逆にミニマム級の試合ではスピードがあってキビキビした攻防を見ることが多いですが、パンチ力がないので判定までもつれ込むことが珍しくありません。

このパワーとスピードのバランスが丁度よく交わっている試合が中量級に多く見られ、強烈なパンチとキビキビした攻防が見られるのです。そのため中量級にビッグファイトが多くなります。今最も稼ぐボクサーといえばサウル・カネロ・アルバレスですが、彼はスーパーウェルター級からライト・ヘビー級(79.379kg)で戦っています。カネロのファイトマネーの1試合の最高額は約45億円ですが、その試合はカレル・ブラントとのスーパーミドル級(76.204kg)王座統一戦でした。話を戻すと、このようにボクシングの「常識」として、重量級になるほどパワーは上がるがスピードが下がり、軽量級になるほどスピードが上がるがパワーが下がるというのがあるのです。

ヘビー級史上最高のボクサーは誰か

史上最高のボクサーは誰かという企画は数々のボクシング専門誌が昔から何度も取り上げてきた企画ですし、ヘビー級だけに絞っても何度も行われてきました。そして大抵の場合、モハメド・アリが1位に選出されています。アリには通算3度のヘビー級王座獲得と、10度の防衛記録があります。しかしこれらの数字だけならヘビー級王座を20度防衛したラリー・ホームズ、25回防衛したジョー・ルイスの方が上になります。また先ほど重量級になるほどパンチ力が上がるのがボクシングの「常識」だと書きましたが、パンチ力だけならジョージ・フォアマンや現役選手のデオンテイ・ワイルダーの方がはるかに上だと言えるでしょう。

※モハメド・アリ

では防衛回数でもパンチ力でも劣るアリが歴代最高に選ばれるのはなぜでしょうか。それはボクシングの階級が上がるほどスピードが落ちるという常識を覆したからだと思います。アリにもパンチ力もありました。生涯のKO率は60%を越えていますし、ハードパンチャーのソニー・リストンを目の覚めるようなパンチでKOしたり、KOキングのジョージ・フォアマンもKOしています。しかしそれ以上に「蝶のように舞い蜂のように刺す」と自身で語っていたように、ヘビー級としては規格外のスピードと華麗なステップで相手を翻弄したことで、まさにボクシングの「常識」を打ち破ったのです。


同じようにヘビー級史上最高のボクサーの中にはマイク・タイソンも上がりますが、タイソンの場合は何度も逮捕されてキャリアを中断しており、全盛期が短かったため史上最高に選ばれることはあまりありません。しかしヘビー級史上最高クラスのパンチ力に加えて、ヘビー級としては規格外のスピードでKOを築いてきました。相手のパンチが届かない距離に構え、一瞬で距離を詰める脅威的なボディスピードに加え、高速のコンビネーションを放つハンドスピードも傑出していました。タイソンもボクシングの「常識」を打ち破った選手なので、全盛期が短くとも高い評価を受けているのだと思います。

ファイティング原田の偉業

ファイティング原田が初めて世界王座を獲得したのは1962年で、フライ級の世界王座でした。この頃はジュニア階級(現在のスーパー階級)がないため、現在の17階級とは違い8階級しかありませんでした。さらに現在のように主要4団体(WBA、WBC、IBF、WBO)などなく、フライ級の世界王者は1人しかいない時代です。つまりこの時点で、原田は現在の4団体統一王者と言えます。フライ級の王座は防衛することなく陥落するのですが、65年に今度はバンタム級世界王座を奪取します。相手は「黄金のバンタム」と呼ばれ、現在も歴代最強のバンタム級王者の1人と言われるエデル・ジョフレでした。


原田はバンタム級王座を4度防衛し、その中には「ロープ際の魔術師」と呼ばれたジョー・メデルもいました。現在のように世界王座が4つもあるなら、ジョフレ、原田、メデルはそれぞれバンタム級の世界王者になり王座統一戦で戦っていたでしょう。原田は68年に5度目の王座防衛戦で王座を明け渡すと、フェザー級に転向します。翌年の69年にオーストラリアで王座挑戦を行いますが、3度もダウンを奪ったのに判定負けという露骨な地元判定に泣きました。そのため事実上の3階制覇と呼ばれ、日本人としては初の世界ボクシング殿堂入りを果たしています。

このように原田は現在なら5階級に跨って戦っており、事実上の5階級制覇とも言われます。また王座認定団体が1つしかない時代だったため、現在なら4団体統一をしながら複数階級を戦ったことになり、世界のボクシング史に名を残したほとんど唯一の日本人ボクサーとなっています。あまりにも偉大な功績を残した日本人ボクサーであり、マイク・タイソンですらファイティング原田の名前を知っていて、来日時に会うことを楽しみにしていたほどです。

しかし先ほどのボクシングの「常識」に当てはめると、原田は常識内のボクサーだったと言えます。原田にはスピードがありましたが、パンチ力は皆無でした。原田の武器は驚異的なスタミナと回転力で、1ラウンドは180秒しかないのに200発以上のパンチを打って、コツコツと相手にダメージを与えていきました。軽いパンチでしたが100発、200発と被弾させることで徐々に相手を削っていき、相手の意識も戦意も刈り取るのです。特殊なスタイルで他ではあまり見ないのですが、軽量級はパンチがないという常識からは逸脱しないと言えると思います。

井上尚弥は「常識外」か

現在、井上尚弥が海外でも評価されているのは、このボクシングの常識から逸脱しているからでしょう。彼はライトフライ級からバンタム級(現在はスーパーバンタム級への転向を表明)で戦ってきましたが、軽量級ならではのスピードに加えて、圧倒的なパワーがあります。特にボディブローの強烈さは際立っていて、重量級でさえボディブローは何発も打ってダメージを蓄積させるものですが、井上尚弥は1発でダメージを与えています。これほど強烈なボディブローを打てる選手は古今東西を見渡してもほとんど皆無で、私はミドル級王者だったジェラルド・マクレラン以来の強烈さだと思っています。

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井上尚弥は軽量級らしいスピードを持っていて、特にボディスピードは特筆するものがあると思います。ハンドスピードだけなら次に戦うスティーブン・フルトンなどもっと速い選手がいるのですが、体全体の移動の速さで測るボディスピードは軽量級の中でも上位に入るでしょう。そして何より、ガードの上からでも相手にダメージを与えるパンチ力です。バンタム級でこれほど強烈なパンチを放つ選手は、過去のボクシングを見てもあまり記憶にありません。またWBSSでファン・カルロス・パヤノをわずか70秒でKOしましたが、最初のワンツーだけで相手の意識を刈り取るのは重量級の試合でしか見られない展開です。

井上尚弥は軽量級ならではのスピードに加えて、この圧倒的なパワーを見せつける試合の数々を見せていて、まさにボクシングの「常識外」ではないでしょうか。軽量級らしいスピードとパンチ力の無さを補うために驚異的な回転力と手数で戦ったファイティング原田を、井上尚弥が越えていると私が思うのはこの点です。常識外にいる井上尚弥は、日本ボクシング史上最高のボクサーと言えるでしょう。

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軽量級のKOキング達

軽量級であってもKOの山を築き、軽量級はパンチがないという常識に挑んだボクサーはこれまでにもいました。バンタム級を語るうえで外せないのは、メキシコのカルロス・サラテでしょう。1976年にWBCバンタム級王座に着くと、9回防衛しています。驚異的なのは対戦レコードで、66勝4敗63KOです。KO率は90%という驚異的なもので、途中に7年間のブランクを挟んでいることも考えると異常な数字だと言えます。さらにこのブランク前なら52勝2敗51KOになり、KO率は94%という意味不明な数字になってしまいます。

※カルロス・サラテ

サラテは173cmの長身ですが、極端にスピードが速いとかパンチ力がある選手ではありませんでした。しかしピンポイントで相手の急所を撃ち抜く技術に長けていて、面白いようにKOを量産していました。バンタム級で相手がいなくなり、スーパーバンタム級に挙げてウィルフレド・ゴメスに挑戦してKO負けしました。現在も海外メディアで井上尚弥とどっちが強いかと比較される選手です。

そしてそのサラテに勝ったウィルフレド・ゴメスもKO話から外せないでしょう。1977年にWBCスーパーバンタム級王座に着くと、17回の防衛に成功しています。しかもその17回防衛の全てがKOで、いまだにこの記録は破られていません。13度目の防衛に成功した後に王座を保持したままフェザー級に挑戦しますが、サルバドール・サンチェスにKO負けして2階級制覇には失敗しました。しかしその後に3階級制覇に成功しており、軽量級のKOキングとしてその名を刻んでいます。

※ウィルフレド・ゴメス

ゴメスの2度目の防衛戦は日本のロイヤル小林が相手で、芸術的な左フックのカウンターでKOしたことで日本のファンにも戦慄を残しました。バズーカと呼ばれた強力な右ストレートに加えて、カウンターの上手さもあり、少し前に米国リング誌の編集長が井上尚弥とゴメスが戦った場合はゴメスが勝利するという予想を出していました。今後の井上尚弥は、こういった歴史に残るボクサーとの比較が続くでしょう。

まとめ

軽量級でありながら、常識外のパワーを発揮している井上尚弥はまさに規格外の存在です。ファイティング原田の偉業には何の異論もありませんが、軽量級はスピードはあるがパワーがないという常識の範囲のボクサーだったと考えると、井上尚弥の存在は際立ってしまいます。これが私がファイティング原田を井上尚弥が越えていると考えた根拠です。もちろんこれ以外の尺度もありますし、そもそも現役の選手を引退した選手と比較するのはナンセンスという意見もあるでしょう。あくまでも酒の肴にする話という程度だと思ってください。


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