残り2秒の大逆転劇 /チャベスvsテイラー戦で何が起こったのか

 立ち上がったメルドリック・テイラーにレフリーのリチャード・スティールが怒鳴るように質問します。Are you OK?(大丈夫か?)テーラーは答えずに右の方を見ました。この後のスティールの判断は、後々まで議論の対象となりました。無敗同士の王者が激突した王座統一戦は、稀に見る大逆転劇として人々の記憶に刻まれますが、同時に議論を巻き起こしたのです。


ミスター・パーフェクトと呼ばれた男

メキシコ出身のフリオ・セサール・チャベスは、メキシコのみならずラテン系アメリカ人の間で圧倒的な人気を誇っていました。80年にプロデビューを果たすとハイペースで試合をこなし、84年にWBCJrライト級(現在のスーパーフェザー級)王座に獲得します。この頃には、すでに40戦以上を経験していました。圧倒的なパンチ力、スタミナ、タフネスを備え、危なげなく王座を防衛し続けていき、タイトル戦の間にノンタイトル戦を挟みながら連勝街道を進みます。

87年にはライト級に転向し、パワーで勝ち続けていた王者エドウィン・ロサリオをパワーで圧倒し、11RKO勝ちで2階級を制覇しました。この時のインタビューで、ライト級王座を統一してからJrウェルター級(現在のスーパーライト級)に転向して王座を統一すると語っています。その言葉通りにライト級王座を統一すると、89年にライト級王座を保持したままJrウェルター級(現在のスーパーライト級)の世界王者に挑戦して勝利します。圧倒的強さで3階級を制覇し、もはや敵なしの状態でした。

チャベスは2つのニックネームで親しまれていました。ミスター・パーフェクトというのは、彼の負けなしの戦績だけではありません。パワーやテクニック、スタミナやクレバネスなど、ボクシングに必要な資質やスキルを全て高い次元で兼ね備えていたからです。もう一つのニックネームはJCスーパースターで、これはイエス・キリストのジーザス・クライスト・スーパースターからつけられました。もはやチャベスの強さと人気は神に近づく勢いだったのです。

爆薬と恐れられたスピードスター

メルドリック・テーラーはアマチュア時代に100戦以上して、そのほとんどを勝利したアマエリートです。ロサンゼルスオリンピックにフェザー級で出場すると、全試合で相手を完封して金メダルを獲得しました。1984年にプロデビューすると連勝を重ね、88年にIBFのJrウェルター級の世界王座を獲得しました。

テーラーはアマエリートらしい巧みな試合運びに加え、圧倒的なハンドスピードで相手を翻弄してきました。TNT(トリニトロ)と呼ばれる爆発的な攻撃を見せ、相手が何もできずに試合が終わることもしばしばでした。全勝街道を突き進み、チャベスの対戦相手として不足なしと多くの人が見ていました。同階級にいる以上、チャベスとの対戦は必然だったと言えるでしょう。

ラスベガスの無敗対決

1990年3月17日、ラスベガスのヒルトンホテルで両者は激突しました。無敗の王者同士の対決でしたが、下馬評ではチャベスが圧倒的有利でした。これまで安定した強さで、簡単に相手を葬ってきたチャベスが負ける姿を予想できる人は皆無だったのです。ギャンブルの掛け率はチャベスに大きく傾いていました。


しかし試合ではテーラーはその予想を覆し、チャベスを圧倒していきます。最新の注意を払ってチャベスの射程から外れる位置に立ち、圧倒的なハンドスピードで試合を支配したのです。チャベスはテーラーのパンチを避けるのに精一杯で、なかなか打ち返すことができません。ほぼ一方的な展開で試合を支配していきます。問題はテーラーが12Rに渡って、同じことを続けられるかでした。

序盤はテーラーのスピードに手を焼いていたチャベスですが、中盤からは徐々にパンチが当たり出します。それでもテーラーが5発打ったら1発返す程度でしかなく、テーラーの優位は変わりません。テーラーは絶えず動き続け、手を休めることなくチャベスを打ち続けました。体力的にもギリギリの勝負だったと思いますが、テーラーは緊張感を保ち続けながら試合を支配していました。

レフリーの苦悩

リチャード・スティールは後に殿堂入りする名レフリーで、スーパーファイトの数々を裁いてきました。絶えず動き回りながらレフリングを行うため観客やテレビカメラの邪魔になることがなく、的確な判断ができるレフリーです。さらにリング禍が横行するボクシングにおいて、適切なタイミングで試合を止める模範的なレフリーとしても知られていました。しかしボクシングファンの間では、必ずしも人気があるレフリーとは言えませんでした。


スティールは試合を止めるのが早すぎると、しばしば批判されていたのです。観客から見て、さほどダメージを受けてないように見えてもスティールが試合を止めることが多く、それがフラストレーションになっていました。また負けた選手からも全くダメージはなかったと抗議されることもあり、試合後に議論を招くこともありました。スティールはボクサーに後遺症が残らないようにレフリングする使命を強く感じていました。

そして再びスティールは、このチャベスvsテーラー戦で激しい批判と議論を巻き起こすことになります。それほどこの試合はレフリングやジャッジが難しい展開になっていったのです。

試合を支配しているのは誰か

試合はテーラーが高速のパンチを連打し、チャベスがそれをかわして強打を打ち込む展開が続きます。テーラーが5発以上打ってからチャベスが1発返す展開なので、手数はテーラーが圧倒的に上回っていました。しかしチャベスの強打は数が少ないものの、確実にテーラーにダメージを与えていました。徐々にテーラーの左目が腫れていき、見た目にもチャベスの強打の影響がわかるようになっていきます。

ここに疑問が生まれます。果たしてテーラーは攻めているのだろうか?という疑問です。手を止めればチャベスに仕留められる可能性が高く、テーラーは攻撃というより自身を守るために手を出しているのではないか?とも見えるのです。プレッシャーをかけ続けているのはチャベスで、パンチを避けるだけで精一杯なのもチャベスです。常にパンチを出し続けているのはテーラーですが、後退する場面が多いのもテーラーでした。


チャベスは相手がどんなリズムであっても、自分のリズムを変えずに戦います。テーラーは高速のリズムでパンチを出し続けていて、自身のリズムで戦っていました。しかし疲労が出てきた中盤から、試合のリズムがチャベスのゆったりとしたリズムになる場面が増えてきました。この試合を支配しているのは手を出し続けているテーラーなのか、プレッシャーをかけているチャベスなのかわかりにくくなっていきます。

11R終了後のインターバル

11ラウンドが終了した時点で、チャベスは2ポイントは負けていると感じていました。つまりこのラウンドで最低でもダウンを奪わなければならず、確実に勝利を得るためにはKOを狙わなければなりません。そのためチャベスのセコンドはKOを狙うように声をかけていました。ゴングと同時に襲いかかるんだと力強くチャベスに話しています。

テーラー陣営はポイントでリードしていると思っていましたが、ジャッジがどのように採点しているか確信が持てませんでした。ラスベガスの観客はラテン系が多く、過去の試合でもラテン系選手に有利な採点が出たこともあります。ましてや相手はラテン系に絶大なチャベスです。テーラーが手数で勝っているとはいえ、有効打の数ではどちらが勝っているか微妙です。そのため最終ラウンドを流すのではなく、確実にこのラウンドを奪うように指示をしました。

双方のセコンドが、積極的に前に出ることを指示しました。しかし両者の表情はあまりに対照的でした。ポイントで負けているチャベスは落ち着いていて、時に笑みさえ浮かべています。自分が負けるはずがないという自身に満ち溢れていました。一方、テーラーの顔は腫れ上がっていて深刻なダメージを受けているのは明らかでした。その顔は悲壮感すら漂い、あと3分間を耐えれば勝てるんだと物語っているように見えました。

最終ラウンドに突入

チャベスはゴングと同時に襲いかかりませんでした。これまでのラウンド同様に、いつものゆったりしたリズムでプレッシャーをかけていきます。テーラーのスタミナはギリギリでしたが、果敢に手を出して攻め立てます。観客はゆったりと攻めるチャベスに不安でした。なぜガンガン攻めないんだとフラストレーションを募らせますが、チャベスはお構いなしにこれまでと同じペースで試合を進めます。

1分を過ぎたあたりで、テーラーは左フックを空振りするとスリップで倒れてしまいました。テーラーの体力が限界なのは明らかですが、それでもチャベスはギアを上げません。チャベスの右ストレートが入ると、テーラーは腰を振っておどけて見せました。残り30秒を切ってチャベスの右ストレートがテーラーの顎をとらえ、テーラーは大きくぐらつきます。それでもチャベスは慌てずボディから攻め立ててコーナーに追い詰めると、再び強烈な右ストレートを合わせてダウンを奪いました。残り時間は15秒程度です。

テーラーはカウント6で立ち上がります。リチャード・スティールはテーラーの顔を覗き込み、Are you OK?(大丈夫か?)と質問しました。この時、テーラーのチーフセコンドがリングのエプロンに駆け上がりました。彼はチャベスがニュートラルコーナーに戻らず、リング上をうろついていることに抗議をしたのです。カウントが進んでいる間は、相手選手はニュートラルコーナーで待つのがルールですが、チャベスはそれを忘れているようでした。ニュートラルコーナーにいない場合は、レフリーが指示をしなくてはなりません。しかし爆発的な大歓声に包まれたリングで、試合の行方を決定づける場面に立ち会っていたスティールに、その声は届きませんでした。

スティールは再び質問をしました。Are you OK?(やれるか?)テーラーはスティールの質問に答えず、エプロンに上がったセコンドを何事かとチラリと見ます。それを見たスティールは、テーラーに判断能力がないと考え試合を止めました。チャベスの大逆転KO勝利で、KOタイムは2分58秒です。あと2秒で12Rが終わり、試合が終了するところでした。

テーラー陣営の猛抗議

スティールが試合を止めた瞬間に、テーラー陣営がリングになだれ込んで猛抗議を始めました。試合時間がわずかな状況で止めたのは、チャベスを勝たせるためだと言わんばかりです。スティールはレフリングを正当性を主張しました。

「私はタイムキーパーではないから、時間は気にしていない。時間に関係なく止める時は止める。私は彼に大丈夫かと尋ねましたが、彼は何も言わなかった」

「命に値する試合などない。パウンドフォーパウンドをかけた試合であっても、私には関係ない。テーラーの命が優先だ。彼はもう限界で、ストップするにふさわしい状況だった」

しかしテーラー陣営は納得しません。スティールが時間を知らなかったはずがないと主張しました。テーラーがダウンしたのはニュートラルコーナー際ですが、そのコーナーの上にはランプが設置されています。残り時間10秒を切るとランプが点灯して時間を知らせるのです。

さらに11ラウンドまでのジャッジペーパーが発表されると、最大8ポイントの差でテーラーがリードしていたことがわかりました。もしスティールが試合を止めずにボックス(試合続行)と言っていれば、テーラーが勝利していたのです。テーラー陣営の怒りはおさまらず、激しい批判をスティールに浴びせ続けることになります。

2人が最も輝いた瞬間だった

テーラー陣営の猛抗議は続きましたが、世間の多くはチャベス勝利を支持しました。テーラーの目が虚だったことに加え、500発近く殴ったのにチャベスの顔は綺麗だったので、テーラーは子供のようなパンチを連打したと言われました。そしてテーラーは顔面を骨折していて、その深刻なダメージは明らかだったからです。

その後、チャベスは防衛を重ねますがフランキー・ランドールという下馬評が著しくない選手にダウンを奪われ、無敗記録が90でストップします。テーラーは2階級制覇に成功しますがビッグマッチに恵まれることはなく、1階級上のテリー・ノリスに挑戦しますが一方的にKOされました。

チャベスはオスカー・デ・ラ・ホーヤに負けて伝説に幕を下ろし、テーラーはチャベスとの再戦にも負けた後に現役を引退しました。その後の生活は困窮していたようで、2019年にアパートの家賃を滞納したため立退をオーナーに求められた際に銃を向けて立てこもってしまい逮捕されました。両者の最後の輝きが、この試合だったように思います。



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