フライトジャケットはロマンで着る
日本には不要な機能に憧れる人が、案外多くいます。カナダグースのダウンジャケットが日本で売り始めた時、南極の寒さに耐えられるジャケットなんて日本では不要と思っていましたが、大ブームになってしまいました。バイクに乗らない人がライダースジャケットを着たり、飛行機に乗るわけでもないのにフライトジャケットを着ます。過剰なスペックにはロマンがあるわけで、必要かどうかなんて関係ないという考えが、日本のファッションには大きく影響していると思います。
そんなわけで、今回はフライトジャケットの話です。某洋服店の店長が、毎年のように「今年の冬はフライトジャケットが流行ますよ」と言っていて、ちっとも流行らないので書いてみたくなりました。
急激なモータリゼーションは、馬具の生産者達の仕事を奪いました。馬に乗らなくなれば鞍も手綱も不要ですし、馬に乗るためのブーツも入らなくなりました。仕事を奪われた馬具の製造者は、革の加工技術を活かして自動車やオートバイ用の服を革で作るようになりました。特に全身が露出するオートバイに乗る人にとって、安全を守るための脛当てや手袋は必需品でした。馬具職人は、やがてオートバイに乗った時の寒さから体を守るジャケットを作るようになります。ライダースジャケットは、こうやって生まれました。
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1903年にライト兄弟が飛行機の初飛行に成功しますが、飛行機はまだまだ珍しい乗り物でしたし、そもそも飛行機で何ができるかわかりませんでした。しかし極寒の上空では防寒対策が必要になり、多くのパイロットがライダースジャケットを着て飛行機に乗っていました。初期のフライトジャケットはライダースジャケットでした。こうした経緯により、パイロットが着る服は革製であることが当たり前になっていきます。
この頃のパイロットにとって、最大の問題は寒さでした。オートバイよりも遥かに速い速度で進み、気温が低い上空を飛ぶのですから、ライダースジャケットでは寒さに耐えられませんでした。ましてや寒いヨーロッパの上空なら、なおさらです。寒さで体が硬直し、墜落事故や接触事故も起こりました。そこでアメリカ陸軍は、1917年に航空衣料委員会を発足させ、本格的な研究を始めることになります。
こうしてできあがったのは革製のカバーオール、つなぎでした。保温性を第一に考え、隙間のない衣服にするにはカバーオールが最適です。そのためフライトジャケットではなくフライトウェアと呼ばれていました。1921年に誕生したB-1フライトウェアは中国から輸入した犬の毛を内側に使って保温性を高めたものですが、これがパイロットには不評でした。犬の毛は臭いが強く、シラミがついている場合がありました。さらにカバーオールは脱ぎ着がしにくく、トイレの時には手間がかかりすぎました。
そこで1932年にジャケットとズボンを切り離して、B-2フライトジャケットが誕生しました。1927年には夏季用フライトジャケットのA-1が誕生しており、それにならってジャケット型にしたのです。B-2はジャケット用として、B-1から細かいディテールが変更になっています。しかし実際にはメーカー任せの部分も多くあり、メーカーごとに仕様が微妙に違っています。このB-2が後にB-3にその座を譲ることになります。
アビレックス社のA-2です。いわば定番品の1着ですね。
バズリクソンズがエアロレザー社のA-2を再現したモデルです。台襟なしの赤リブが特徴です。
アビレックス社のB-3です。ポケットが左右についています。
バズリクソンズのB-3です。ポケットが右側だけになっています。
ヒューストン社のG-1です。比較的安価なので人気が高いです。
バズリクソンズのG-1
バズリクソンズのB-6
バズリクソンズのB-10
セスラー社のB-15A
トイズマッコイのB-15A
バズリクソンズのL-2A
アルファ社のL-2B
バズリクソンズのB-15D
アルファ社のMA-1。フライトジャケットの入門編として、気軽に着られるジャンパーとして現在も高い人気を誇っています。
フェローズのMA-1
ヒューストンのCWU-36/P。ナイロン製です。
同じくヒューストン製ですが、こちらはノーメックスです。
こちらはアルファ社製です。
アメリカ軍に納入しているバレイアパレル社のノーメックスを使ったモデルです。
アルファ社のN-2B
アルファ社のN-3B
トム・クルーズが劇中で着ていたのがG-1フライトジャケットでした。G-1を羽織りカワサキのオートバイで滑走路を走る場面は、主題歌のPVでも何度も流されました。もしG-1を着て飛行機に乗っていたら、日本人にはピンと来なかったかもしれません。しかし日本製のオートバイにG-1の組み合わせは、日本人の多くが真似できるものでした。多くのファッション雑誌が、このG-1を特集するようになります。
この人気に目をつけた各誌は、A-2など他のフライトジャケットも紹介するようになり、これらの商品を販売していたアビレックス社には、全国から注文が殺到するようになりました。日本では過剰スペックのB-3は、冬の夜中でも道に立ち続けるホストクラブの呼び込みに支持されるなど、フライトジャケットは幅広く人気となっていきました。
こうして革製のフライトジャケットが爆発的な人気を得ていくと、安価なナイロン製のフライトジャケットも人気が高まりました。MA-1は現役のフライトジャケットではありませんでしたが、まるで現行のフライトジャケットと錯覚するような記事が溢れ、価格の手頃さも手伝って人気になります。
88年には革製フライトジャケットを忠実に再現した製品を送り出すザ・リアルマッコイズ・ジャパンが設立され、93年に化繊のフライトジャケットを中心に再現するバズリクソンズも、東洋エンタープライズ社によって立ち上げられました。
関連記事:東洋エンタープライズ /日本が誇る執念の服飾ブランド
こうして80年代後半から90年代前半にかけて、フライトジャケットは日本で大ブームになりました。やがてブームは終わりますが、一部の愛好家には根強い人気を保っていて、今でも忠実なレプリカが決して安くはない価格で販売されています。
しかし日常生活で、極端に使いにくいわけでもなく、空軍や海軍のパイロットは日常でも着ていました。普段使いにもある程度は問題ない許容度の幅があるのも事実で、だからこそブームになり今でも来続ける人がいるのです。しかしフライトジャケットの本当の魅力は、ある種のロマンだと思います。一つはパイロットのロマンです。飛行機乗りと同じものを着ている、または飛行機乗りを演じた映画の主人公と同じものを着ているという憧れから来る満足度があると思います。
もう一つは、50年代から60年代の英米の不良文化へのロマンです。イギリスでもアメリカでも、不良少年はフライトジャケットを着ていました。その理由は安かったからです。戦争が終わると軍の余剰物資が大量に市場に出回りました。その多くは古着で、軍用の衣料品は安価に買える丈夫な服として人気になります。昔の日本の暴走族が、ドカジャンなどの土方(最近はこの言葉を差別用語と言う人がいるらしいですね)用の衣料品を着ていたのと同様で、お金がない若者にも手が届く防寒着だったからです。これら不良文化へのロマンも、フライトジャケットを支える要因になっていると思います。
軍人にとっては支給品、不良少年にとっては安価なものであったフライトジャケットが、日本では数十万円もするレプリカ品になって売られていることに疑問の声もあります。しかしロマンへの対価は人それぞれですし、そういった憧れがフライトジャケットの人気を支えているように思います。
そんなわけで、今回はフライトジャケットの話です。某洋服店の店長が、毎年のように「今年の冬はフライトジャケットが流行ますよ」と言っていて、ちっとも流行らないので書いてみたくなりました。
なぜ初期のフライトジャケットは革製なのか
1908年に、アメリカではT型フォードが発売されました。当時の労働者の年収600ドルに対しT型フォードは850ドルで、従来の自動車よりはるかに安く売られたのです。アメリカでモータリゼーションが始まり、人々は馬車から自動車に乗り換えました。急激なモータリゼーションは、馬具の生産者達の仕事を奪いました。馬に乗らなくなれば鞍も手綱も不要ですし、馬に乗るためのブーツも入らなくなりました。仕事を奪われた馬具の製造者は、革の加工技術を活かして自動車やオートバイ用の服を革で作るようになりました。特に全身が露出するオートバイに乗る人にとって、安全を守るための脛当てや手袋は必需品でした。馬具職人は、やがてオートバイに乗った時の寒さから体を守るジャケットを作るようになります。ライダースジャケットは、こうやって生まれました。
※1900年の写真 |
関連記事:ライダースジャケットを考える /ハード過ぎない着こなし方
1903年にライト兄弟が飛行機の初飛行に成功しますが、飛行機はまだまだ珍しい乗り物でしたし、そもそも飛行機で何ができるかわかりませんでした。しかし極寒の上空では防寒対策が必要になり、多くのパイロットがライダースジャケットを着て飛行機に乗っていました。初期のフライトジャケットはライダースジャケットでした。こうした経緯により、パイロットが着る服は革製であることが当たり前になっていきます。
フライトジャケットの誕生
1914年に始まった第一次世界大戦に、飛行機は偵察用として使われました。高い空から敵地を覗き見るのに、飛行機が有効だったのです。ここでようやく飛行機の使い道が明確になってきます。1人かせいぜい2人しか乗れず、馬鹿みたいに大きなエンジンを積んで、いつ落ちて死ぬかわからない飛行機は、世界大戦で重要な兵器になって行きました。※オスマン帝国のパイロット(1914年) |
この頃のパイロットにとって、最大の問題は寒さでした。オートバイよりも遥かに速い速度で進み、気温が低い上空を飛ぶのですから、ライダースジャケットでは寒さに耐えられませんでした。ましてや寒いヨーロッパの上空なら、なおさらです。寒さで体が硬直し、墜落事故や接触事故も起こりました。そこでアメリカ陸軍は、1917年に航空衣料委員会を発足させ、本格的な研究を始めることになります。
こうしてできあがったのは革製のカバーオール、つなぎでした。保温性を第一に考え、隙間のない衣服にするにはカバーオールが最適です。そのためフライトジャケットではなくフライトウェアと呼ばれていました。1921年に誕生したB-1フライトウェアは中国から輸入した犬の毛を内側に使って保温性を高めたものですが、これがパイロットには不評でした。犬の毛は臭いが強く、シラミがついている場合がありました。さらにカバーオールは脱ぎ着がしにくく、トイレの時には手間がかかりすぎました。
※B-3ジャケット |
そこで1932年にジャケットとズボンを切り離して、B-2フライトジャケットが誕生しました。1927年には夏季用フライトジャケットのA-1が誕生しており、それにならってジャケット型にしたのです。B-2はジャケット用として、B-1から細かいディテールが変更になっています。しかし実際にはメーカー任せの部分も多くあり、メーカーごとに仕様が微妙に違っています。このB-2が後にB-3にその座を譲ることになります。
代表的な革製のフライトジャケット
A-2
先ほどの夏季用フライトジャケットA-1の改良型です。1931年に正式採用されたモデルなので、デザインはかなり古いものになります。オリジナルは時期によって10社以上が製造して納品しており、それぞれ微妙に仕様が異なります。台襟付きなどはレプリカでも人気が高いようです。映画「大脱走」でスティーブ・マックイーンが着用したことで、高い人気を誇るようになりました。アビレックス社のA-2です。いわば定番品の1着ですね。
バズリクソンズがエアロレザー社のA-2を再現したモデルです。台襟なしの赤リブが特徴です。
B-3
上記のB-2の改良型です。シープスキンを使った寒冷地用で、2本のチンストラップにポケットは右側1つとなっています(レプリカの多くは左右にポケットをつけています)。映画「メンフィスベル」で、爆撃機のパイロットが着用しているのが見られます。アビレックス社のB-3です。ポケットが左右についています。
バズリクソンズのB-3です。ポケットが右側だけになっています。
G-1
A-2は陸軍用のフライトジャケットですが、海軍用に作られたのがG-1です。1940年から支給され、モデルチェンジを繰り返していきました。背中に大きなアクションプリーツがあり、細身ながらA-2よりも動きやすくなる工夫が施されています。映画「トップガン」でトム・クルーズが着用し、爆発的な人気を得たジャケットでもあります。ヒューストン社のG-1です。比較的安価なので人気が高いです。
バズリクソンズのG-1
B-6
コックピットに風防がついて、吹きざらしではなくなったことからB-3より軽量なジャケットとして開発されました。暖かいけど動きにくいB-3に対して、内側の毛を短く刈り込んだB-6は随分動きやすくなっています。発売しているメーカーが少ないのが難点ですが、個人的にはB-3より着やすいと思います。バズリクソンズのB-6
トイズマッコイのB-6 |
布のフライトジャケット
第二次世界大戦は、戦争の舞台を陸から空に移しました。制空権を奪うことが戦略上有効になり、飛行機が大量生産されていきます。それに伴いフライトジャケットも大量に作られるのですが、急激な増産により革が不足したことに加えコストも問題になっていきました。そこで布でフライトジャケットを作るようになりました。B-10
1943年に投入されましたが、供給された期間は1年もありませんでした。ベースとなった布は、トレンチコートの素材となったコットンギャバジンです。バズリクソンズのB-10
B-15A
B-10の後継モデルとして供給されましたが、こちらも1年も経たずに後継モデルに譲ることになります。布よりも優れた素材、ナイロンを使うことになったからです。布製のフライトジャケットは、短命に終わっています。セスラー社のB-15A
トイズマッコイのB-15A
化繊のフライトジャケットへ
L-2
1945年、ナイロン製のフライトジャケットL-2が登場しました。ナイロンは1935年にデュポン社が製造に成功した人工の繊維で、鋼鉄よりも強く蜘蛛の糸より細いと言われた最先端の繊維です。L-2はA-2の後継として開発された陸軍航空部隊用のフライトジャケットで、10℃から30℃のライトゾーン用でした。1947年には陸軍から航空部隊が独立して空軍になったため、空軍用にL-2のフォルムのままエアフォースブルーになったL-2Aが登場します。ところがエアフォースブルーは視認性が良いため問題となり、セージグリーンのL-2Bが登場します。バズリクソンズのL-2A
アルファ社のL-2B
B-15B
L-2と同じ時期に登場したインターミディエイトゾーン用(-10℃〜10℃)のフライトジャケットです。布製だったB-15Aから素材を変更し、ナイロンになりました。こちらも空軍の設立とともにエアフォースブルーのB-15Cが登場しますが、同じく視認性の問題でセージグリーンのB-15Dが登場します。バズリクソンズのB-15D
MA-1
1954年、B-15Dの後継として誕生しました。実に7回のスペック変更が行われ、20年以上も使われ続けた完成度の高いフライトジャケットです。5回目のスペック変更の際には、内部がエマージェンシーカラーと呼ばれる目立つ色になりました。これは墜落した時に裏返して着ることで、捜索隊に早く発見してもらうためです。フライトジャケットとしての役目を終えた後も、グランドクルー用の防寒着として使われたほどで、米軍内での人気と信頼の高さが伺えます。日本でも人気が高いフライトジャケットで、80年代に爆発的な人気を誇りました。MA-1は最近も流行っているようですね。アルファ社のMA-1。フライトジャケットの入門編として、気軽に着られるジャンパーとして現在も高い人気を誇っています。
フェローズのMA-1
CWU-36/P
1978年、L-2Dの後継として誕生しました。ナイロンではなくアラミド繊維(デュポン社のノーメックス)を使っており、耐摩耗性や難燃性が飛躍的に高まっています。コックピットで火災が起こった際に、難燃性であることはパイロットを守る観点から重要で、現在でもアラミド繊維がフライトジャケットの標準になっています。映画「トップガン」の続編「トップガン マーベリック」で、トム・クルーズが着用していたことから、最近人気になっています。ヒューストンのCWU-36/P。ナイロン製です。
同じくヒューストン製ですが、こちらはノーメックスです。
CWU-45/P
MA-1の後継として誕生したインターミディエイトゾーン用のフライトジャケットです。CWU-36/Pと同様に、アラミド繊維が使われています。1973年の登場以来、現在でもアメリカ軍のフライトジャケットです。こちらはアルファ社製です。
アメリカ軍に納入しているバレイアパレル社のノーメックスを使ったモデルです。
N-2
1945年にヘヴィーゾーン(−30℃〜−10℃)用のフライトジャケットとして登場したのが、N-2です。その後N-2A、N-2Bへと変更され現在に至ります。N-3はN-2の着丈を長くしたグランドクルー用の防寒着で、N-2と同様にN-3A、N-3Bと変更されて現在も使用されています。アルファ社のN-2B
アルファ社のN-3B
80年代のフライトジャケットブーム
1986年に映画「トップガン」が公開されると大ヒットになりました。海軍の航空戦訓練学校(通称トップガン)を舞台にした物語で、最新の音楽をバックに本物の戦闘機を使ったドッグファイトを存分に映し出していました。主演はトム・クルーズで、彼はこの映画でスター俳優の仲間入りを果たします。トム・クルーズが劇中で着ていたのがG-1フライトジャケットでした。G-1を羽織りカワサキのオートバイで滑走路を走る場面は、主題歌のPVでも何度も流されました。もしG-1を着て飛行機に乗っていたら、日本人にはピンと来なかったかもしれません。しかし日本製のオートバイにG-1の組み合わせは、日本人の多くが真似できるものでした。多くのファッション雑誌が、このG-1を特集するようになります。
※映画「トップガン」 |
この人気に目をつけた各誌は、A-2など他のフライトジャケットも紹介するようになり、これらの商品を販売していたアビレックス社には、全国から注文が殺到するようになりました。日本では過剰スペックのB-3は、冬の夜中でも道に立ち続けるホストクラブの呼び込みに支持されるなど、フライトジャケットは幅広く人気となっていきました。
こうして革製のフライトジャケットが爆発的な人気を得ていくと、安価なナイロン製のフライトジャケットも人気が高まりました。MA-1は現役のフライトジャケットではありませんでしたが、まるで現行のフライトジャケットと錯覚するような記事が溢れ、価格の手頃さも手伝って人気になります。
※MA-1 |
88年には革製フライトジャケットを忠実に再現した製品を送り出すザ・リアルマッコイズ・ジャパンが設立され、93年に化繊のフライトジャケットを中心に再現するバズリクソンズも、東洋エンタープライズ社によって立ち上げられました。
関連記事:東洋エンタープライズ /日本が誇る執念の服飾ブランド
こうして80年代後半から90年代前半にかけて、フライトジャケットは日本で大ブームになりました。やがてブームは終わりますが、一部の愛好家には根強い人気を保っていて、今でも忠実なレプリカが決して安くはない価格で販売されています。
フライトジャケットの魅力
機能性だけを優先した軍用品なので、フライトジャケットは機能的だと言われていますが、それはその時代の軍用機の中においてであって、日常生活では決して機能的とは言えません。例えばMA-1の後見頃が前見頃より短いのは、コックピットのシートに座る際の機能性であり、日常生活では屈んだときに背中が出ないように、後見頃が長い方がよほど機能的です。しかし日常生活で、極端に使いにくいわけでもなく、空軍や海軍のパイロットは日常でも着ていました。普段使いにもある程度は問題ない許容度の幅があるのも事実で、だからこそブームになり今でも来続ける人がいるのです。しかしフライトジャケットの本当の魅力は、ある種のロマンだと思います。一つはパイロットのロマンです。飛行機乗りと同じものを着ている、または飛行機乗りを演じた映画の主人公と同じものを着ているという憧れから来る満足度があると思います。
もう一つは、50年代から60年代の英米の不良文化へのロマンです。イギリスでもアメリカでも、不良少年はフライトジャケットを着ていました。その理由は安かったからです。戦争が終わると軍の余剰物資が大量に市場に出回りました。その多くは古着で、軍用の衣料品は安価に買える丈夫な服として人気になります。昔の日本の暴走族が、ドカジャンなどの土方(最近はこの言葉を差別用語と言う人がいるらしいですね)用の衣料品を着ていたのと同様で、お金がない若者にも手が届く防寒着だったからです。これら不良文化へのロマンも、フライトジャケットを支える要因になっていると思います。
軍人にとっては支給品、不良少年にとっては安価なものであったフライトジャケットが、日本では数十万円もするレプリカ品になって売られていることに疑問の声もあります。しかしロマンへの対価は人それぞれですし、そういった憧れがフライトジャケットの人気を支えているように思います。
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