安藤美姫 /翻弄され嫌われ続けた女王
安藤美姫の名前を知ったのは2004年の世界選手権でした。フィギュアスケートは低迷期で、テレビ中継もなかった時代でした。そんな中、荒川静香が世界選手権優勝というニュースが飛び込み驚きました。「え!?荒川静香って、まど現役だったの?」というのが私の第一印象でした。そして優勝した荒川静香の会見に安藤美姫も同席していました。
豊かな演技をしながら能面と呼ばれ、感情表現ができないと酷評されていた荒川静香は、わずか数ヶ月の間に変貌を遂げます。タラソワの魔法なのか、荒川が最初から持っていたものなのか、荒川は能面と呼ばれる演技からクール・ビューティに変化して世界選手権優勝を遂げました。その記者会見にジュニアながら4位に入った安藤美姫も同席していたのです。
将来の目標を聞かれた安藤は、幼い顔で「しーちゃんと同じのがいい」(荒川静香と同じ金メダルを獲りたい)と言っていました。よく言えば天真爛漫、悪く言うなら頭が悪そうな印象でした。
この頃の安藤は、上手く滑れると褒められるのが嬉しくて、純粋に競技を楽しんでいたようです。安藤は荒川の後継者と見なされ、全日本選手権で連覇をするとますます安藤人気は過熱していきます。GPシリーズでも上位に入るようになり、オリンピック代表に選ばれました。
さらに人気者になった安藤に、過密日程が負担をかけます。安藤が出ればどの大会も大盛況になるため、可能な限り安藤は出場を求められました。アイスショーやスケート連盟のイベントなど、休む間も無く出場し続けた安藤の体は悲鳴を上げ始めます。しかし安藤は周囲の期待に応えるため、無理をして出続けました。そして周囲の期待は高まるばかりで、本人の不安を無視するように増長し続けました。そして安藤の成績は低迷するようになります。
成績が下降し続ける安藤は、それでも大会に出続けます。そして一気に人気者になった反動で、アンチの存在も増えていました。吹き出物を濃いメイクで隠した顔はブスと罵られ、痛み止めで顔だけでなく体全体がむくむとデブと野次られました。フィギュアの世界的選手とは言え、安藤は10代の少女でもありました。周囲は外野の声をシャットアウトしようとしましたが、ファンに混じって面と向かってデブと中傷する人まで追い払えません。安藤は傷つき、落ち込んでいきました。
そして浅田真央の存在が、さらに安藤を苦しめます。年齢制限のためオリンピックに出場できない浅田真央に関心が集まり、安藤を出すぐらいなら浅田を出すべきだという声が高まります。これまで安藤をチヤホヤしていたメデイアも手のひらを返し、成績不振の安藤を責めました。安藤は記者に囲まれて「私は自分が真央より劣っているとは思わない」と悲壮感を漂わせて発言し、さらに叩かれることになります。
そしてトリノオリンピックではミスが目立ち、15位に終わりました。荒川静香の金メダルに沸く日本で、安藤の選手生命は終わろうとしていました。足の指を骨折したままオリンピックに出たことが分かると、世間はさらに安藤を責めました。「日本の恥」と言われた安藤は、会場にいることも苦痛になり、フィギュアを辞めようとしていました。
ニコライ・モロゾフに師事すると、体づくりから見直すと同時にジャンプの基礎から見直すようになります。モロゾフは大人の女性の魅力を安藤に求め、安藤は着実に変化していきました。しかし一度狂った歯車は簡単に戻せません。2005年は復活の手ごたえをつかみますが、2006年はGPファイナルのショートプログラム(SP)で会心の演技で1位になるものの、フリープログラム(FP)の直前に腹痛を起こして5位に終わります。さらに2006年の全日本選手権では、FPで肩を脱臼してしまいます。
いくつかの大会を欠場した安藤は、すでに終わったとみられていました。この頃は浅田真央が日本だけでなく世界を席巻していて、フィギュアの話題は浅田真央が中心でした。しかし十分な休養をとって体調を整えた安藤は、世界選手権で会心の演技を見せます。全てを吹っ切るような演技で優勝を飾りました。劇的な復活を遂げ、世界女王になった安藤に世間は再び驚かされました。
トイレに立てこもり練習を拒否する安藤を、コーチのモロゾフは慰めるのではなく叱咤したそうです。モロゾフは安藤の可能性を信じていましたし、それは周囲も同じでした。弱気になって全てを投げ出そうとする安藤に、周囲は留意に努めました。日本国内では相変わらず安藤バッシングが続いていましたが、どれほど多くの人が安藤を批難しようと、モロゾフや周囲の人達は安藤の持つポテンシャルを信じていました。こうして安藤は引退ではなく続行を決めました。
そして全日本選手権で悲劇が襲います。練習中に村主章枝と衝突してしまったのです。膝を抱えて苦しそうに喘ぐ安藤に批判の声が集まりました。村主に申し訳ないとコメントを出すと、それも叩かれました。安藤はメディアに心を閉ざしていきますが、スケートは確実に復活の兆しを見せていました。この年の世界選手権で安藤は3位に入り、久しぶりのメダルを手にしました。
この後、休養に入りますが、コーチが見つからないなどのこともあり、妊娠と出産を経て引退を表明しました。安藤の引退は子供の父親が誰かという話題に終始し、2度も世界選手権を制覇した女王には相応しくない、ひっそりとしたものでした。
女子トイレに入って来るファンや取材陣、安藤がバッグに下げたいたという理由で北海道のキャラクター「まりもっこり」が売り切れ、大会会場では入場制限されたファンの怒号が飛び交うような状況に、無理をして笑顔で対応していた安藤が限界に達した時、メディアと安藤、そしてファンと安藤の間に溝ができたように思います。印象的だったのは、トリノオリンピック前の記者会見でのできごとでした。8歳の時に亡くなった父親のことを質問された時です。
「そういうことにはお答えできません」
安藤は壊れたように泣きじゃくり、記者を呆然とさせました。記者としてはオリンピックという大舞台を前に、亡き父に対する想いを聞きたかっただけでしょう。しかし安藤にとって父親との記憶は大事な大事な宝物でした。これまで何度もプライベートを暴かれ、大事にしていたものを無神経に公開され、そして批判されてきた安藤にとって、一番大事な宝箱を無神経にこじ開けようとする記者の質問に我慢が限界に達したのです。しかしそんな想いは、多くの人が知る由もありませんでした。
メディアと距離をとる安藤は、次第にメディアから嫌われていきます。成績が低迷し、好意的に接してくれない安藤を好意的に取り上げるメディアはあまりありませんでした。世間もメディアも好成績を連発し、天真爛漫な受け答えをする浅田真央に夢中になりました。安藤はメディアと良好な関係を築けなかったのです。浅田真央をベビーフェイスとするなら、安藤はヒールでした。こうして安藤は何をしても嫌われる存在になっていきます。
また好不調の波が激しい安藤は、不調の時にも周囲が見守る必要がありました。不調の時は演技全体のレベルが低下しますが、好調の時は奇跡的な演技を見せました。しかし不調の時に「安藤ではダメだ」「彼女の時代は終わった」と騒ぎ立てられると、気持ちを持ち直すことが容易でなくなりました。ですから周囲の人達は安藤をメディアから遠ざけようとしましたし、本人も雑音を耳に入れないようにしていました。コーチ陣が好調の時はキム・ヨナを上回る表現力と断言する安藤の演技は、ガラス細工のように繊細な作業と集中力を要したのです。
2011年のシーズンは、本当に神がかったシーズンでした。そんな安藤がメディアに嫌われ、ひっそりと引退したのは、少し寂しい思いがしました。思い通りに取材を受けてくれない安藤に苛立つメディアが安藤を悪く書き、それに世間が乗って安藤をバッシングし続けたのは気の毒に思います。安藤は世界最高のスケーターでしたし、それは実績を見れば明らかです。安藤美姫と浅田真央というトップスケーター2人が同時に存在した21世紀初頭は、奇跡的な時間だったのだと思います。
2004年の世界選手権
日本では村主章枝と並ぶトップスケーターだった荒川静香は、その後の低迷によって大学卒業と同時に現役引退を考えていました。TBSに願書を送り、就職も決まっていました。世界選手権の切符を手に入れた荒川は卒業旅行のつもりで出場を決め、最後の舞台のコーチに、ロシアのタチアナ・タラソワを選びました。※世界選手権の荒川静香 |
豊かな演技をしながら能面と呼ばれ、感情表現ができないと酷評されていた荒川静香は、わずか数ヶ月の間に変貌を遂げます。タラソワの魔法なのか、荒川が最初から持っていたものなのか、荒川は能面と呼ばれる演技からクール・ビューティに変化して世界選手権優勝を遂げました。その記者会見にジュニアながら4位に入った安藤美姫も同席していたのです。
将来の目標を聞かれた安藤は、幼い顔で「しーちゃんと同じのがいい」(荒川静香と同じ金メダルを獲りたい)と言っていました。よく言えば天真爛漫、悪く言うなら頭が悪そうな印象でした。
快進撃の始まりとアイドル化
その後、シニアの大会に出るようになった安藤は、最高難易度の技を連発して天才の名を欲しいままにします。テレビ局は安藤美姫の特集を組み、大会は人数制限をかけなければならなくなり、その容姿と無垢なキャラでフィギュアスケートのアイドルになりました。その人気ぶりはタレント並みで、安藤は常にメディアに追いかけられるようになります。この頃の安藤は、上手く滑れると褒められるのが嬉しくて、純粋に競技を楽しんでいたようです。安藤は荒川の後継者と見なされ、全日本選手権で連覇をするとますます安藤人気は過熱していきます。GPシリーズでも上位に入るようになり、オリンピック代表に選ばれました。
プレッシャーの始まり
世間はトリノオリンピックで安藤がメダルをとることを望みましたが、安藤はまだまだ成長過程で、世界選手権でもGPシリーズでも優勝経験がありませんでした。そして加熱する報道が安藤を戸惑わせます。スポーツ紙が練習中の安藤のコスチュームから乳首が浮き出ている写真を大きく掲載したことは、本人にはショックだったそうです。まだ10代の安藤は、自身が性的な対象として見られたことに、どう対応してよいか分からず周囲に助けを求めました。さらに人気者になった安藤に、過密日程が負担をかけます。安藤が出ればどの大会も大盛況になるため、可能な限り安藤は出場を求められました。アイスショーやスケート連盟のイベントなど、休む間も無く出場し続けた安藤の体は悲鳴を上げ始めます。しかし安藤は周囲の期待に応えるため、無理をして出続けました。そして周囲の期待は高まるばかりで、本人の不安を無視するように増長し続けました。そして安藤の成績は低迷するようになります。
2005-06シーズンの安藤
この頃の安藤は、あらゆる意味でどん底になります。2005年の安藤は肩をテーピングし、顔には吹き出物が多く見られ、顔全体がむくんでいました。明らかに痛み止めの過剰投与による副作用で、満身創痍になっていました。ジャンプを失敗するだけでなく、スパイラルシークエンスはふらつき、スピンは軸がブレていました。成績が下降し続ける安藤は、それでも大会に出続けます。そして一気に人気者になった反動で、アンチの存在も増えていました。吹き出物を濃いメイクで隠した顔はブスと罵られ、痛み止めで顔だけでなく体全体がむくむとデブと野次られました。フィギュアの世界的選手とは言え、安藤は10代の少女でもありました。周囲は外野の声をシャットアウトしようとしましたが、ファンに混じって面と向かってデブと中傷する人まで追い払えません。安藤は傷つき、落ち込んでいきました。
そして浅田真央の存在が、さらに安藤を苦しめます。年齢制限のためオリンピックに出場できない浅田真央に関心が集まり、安藤を出すぐらいなら浅田を出すべきだという声が高まります。これまで安藤をチヤホヤしていたメデイアも手のひらを返し、成績不振の安藤を責めました。安藤は記者に囲まれて「私は自分が真央より劣っているとは思わない」と悲壮感を漂わせて発言し、さらに叩かれることになります。
※トリノでの安藤 |
そしてトリノオリンピックではミスが目立ち、15位に終わりました。荒川静香の金メダルに沸く日本で、安藤の選手生命は終わろうとしていました。足の指を骨折したままオリンピックに出たことが分かると、世間はさらに安藤を責めました。「日本の恥」と言われた安藤は、会場にいることも苦痛になり、フィギュアを辞めようとしていました。
再挑戦
安藤の言葉によると、トリノの会場を傷心のまま去ろうとする安藤に、見知らぬ女性が声を掛けてきたといいます。「4回転に挑戦してくれて、ありがとうございます。おかげで見に来たかいがありました」と、その女性に言われて軽いショックを受けたそうです。自分を日本の恥だと思わない人がいる、自分のスケートを見に来てくれた人がいる、4回転ジャンプは自分だけの想いじゃなかった。こうして安藤は再起を誓ったそうです。ニコライ・モロゾフに師事すると、体づくりから見直すと同時にジャンプの基礎から見直すようになります。モロゾフは大人の女性の魅力を安藤に求め、安藤は着実に変化していきました。しかし一度狂った歯車は簡単に戻せません。2005年は復活の手ごたえをつかみますが、2006年はGPファイナルのショートプログラム(SP)で会心の演技で1位になるものの、フリープログラム(FP)の直前に腹痛を起こして5位に終わります。さらに2006年の全日本選手権では、FPで肩を脱臼してしまいます。
※肩を脱臼した安藤 |
いくつかの大会を欠場した安藤は、すでに終わったとみられていました。この頃は浅田真央が日本だけでなく世界を席巻していて、フィギュアの話題は浅田真央が中心でした。しかし十分な休養をとって体調を整えた安藤は、世界選手権で会心の演技を見せます。全てを吹っ切るような演技で優勝を飾りました。劇的な復活を遂げ、世界女王になった安藤に世間は再び驚かされました。
※浅田真央、キム・ヨナを抑えて優勝しました。 |
完全復活にならなかった2007-08シーズン
世界女王になった安藤は完全復活したかに見えましたが、再び怪我が安藤を襲います。GPファイナル進出を逃し、NHK杯では何度も転倒して本来の力を出し切れませんでした。そして前回の女王として世界選手権に挑みますが、ふくらはぎを痛めたままの強行出場でした。SPで出遅れるとFPの最中に演技を続けられなくなり、途中棄権しました。このショックは大きかったようで、安藤は練習もボイコットして引退を周囲に漏らすようになります。※安藤とモロゾフ |
トイレに立てこもり練習を拒否する安藤を、コーチのモロゾフは慰めるのではなく叱咤したそうです。モロゾフは安藤の可能性を信じていましたし、それは周囲も同じでした。弱気になって全てを投げ出そうとする安藤に、周囲は留意に努めました。日本国内では相変わらず安藤バッシングが続いていましたが、どれほど多くの人が安藤を批難しようと、モロゾフや周囲の人達は安藤の持つポテンシャルを信じていました。こうして安藤は引退ではなく続行を決めました。
さらに襲う悲運
2008-09シーズンで安藤とモロゾフが選択したSPのSAYURIは、奇抜な衣装と鷹揚のない音楽で不評でした。しかしシーズン終盤には見事にSAYURIを自分のものにしていきます。そしてこの頃から、明らかに安藤のメディア対応は変わっていました。徐々にメディアから距離をとっていましたが、コメントが当り触りのないものが増え、本心を語っていないように見えることが増えました。「棄権の原因は?」と質問され、正直に「脱臼した」と答えると、「言い訳ばかりする」と批判され、何を言っても悪くとられることに諦めたようでした。※衝突した安藤と村主 |
そして全日本選手権で悲劇が襲います。練習中に村主章枝と衝突してしまったのです。膝を抱えて苦しそうに喘ぐ安藤に批判の声が集まりました。村主に申し訳ないとコメントを出すと、それも叩かれました。安藤はメディアに心を閉ざしていきますが、スケートは確実に復活の兆しを見せていました。この年の世界選手権で安藤は3位に入り、久しぶりのメダルを手にしました。
2010-11シーズンの大躍進
前年のバンクーバーオリンピックでは5位と思った成績を出せませんでしたが、このシーズンでは安藤が持ち前のポテンシャルを発揮して大爆発します。GPロステレコム杯、GP中国杯、全日本選手権、四大陸選手権、そして世界選手権で優勝し、安藤はキャリア最高の成績を残しました。特に東日本大震災で開催地がロシアに急遽変更になった世界選手権では、SP・FPともスピンは最高のレベル4の評価を獲得し、文句なしの優勝でした。※キム・ヨナ、コストナーを抑えて世界選手権優勝 |
この後、休養に入りますが、コーチが見つからないなどのこともあり、妊娠と出産を経て引退を表明しました。安藤の引退は子供の父親が誰かという話題に終始し、2度も世界選手権を制覇した女王には相応しくない、ひっそりとしたものでした。
最高のスケーターがなぜ嫌われたのか
安藤美姫は世間に嫌われ、何をやっても言っても悪く言われる悪循環の中にいました。十代の頃のミキティ・フィーバーを知る者としては、その後の嫌われ方は驚きでした。現役女子高生の美人スケーターとしてメディアに注目され、取材が殺到しても安藤はどこかそれを楽しんでいたようです。しかし人気が過熱しすぎると、安藤は恐ろしくなりメディアやファンから逃げるようになります。女子トイレに入って来るファンや取材陣、安藤がバッグに下げたいたという理由で北海道のキャラクター「まりもっこり」が売り切れ、大会会場では入場制限されたファンの怒号が飛び交うような状況に、無理をして笑顔で対応していた安藤が限界に達した時、メディアと安藤、そしてファンと安藤の間に溝ができたように思います。印象的だったのは、トリノオリンピック前の記者会見でのできごとでした。8歳の時に亡くなった父親のことを質問された時です。
「そういうことにはお答えできません」
安藤は壊れたように泣きじゃくり、記者を呆然とさせました。記者としてはオリンピックという大舞台を前に、亡き父に対する想いを聞きたかっただけでしょう。しかし安藤にとって父親との記憶は大事な大事な宝物でした。これまで何度もプライベートを暴かれ、大事にしていたものを無神経に公開され、そして批判されてきた安藤にとって、一番大事な宝箱を無神経にこじ開けようとする記者の質問に我慢が限界に達したのです。しかしそんな想いは、多くの人が知る由もありませんでした。
※記者会見で号泣した安藤 |
メディアと距離をとる安藤は、次第にメディアから嫌われていきます。成績が低迷し、好意的に接してくれない安藤を好意的に取り上げるメディアはあまりありませんでした。世間もメディアも好成績を連発し、天真爛漫な受け答えをする浅田真央に夢中になりました。安藤はメディアと良好な関係を築けなかったのです。浅田真央をベビーフェイスとするなら、安藤はヒールでした。こうして安藤は何をしても嫌われる存在になっていきます。
また好不調の波が激しい安藤は、不調の時にも周囲が見守る必要がありました。不調の時は演技全体のレベルが低下しますが、好調の時は奇跡的な演技を見せました。しかし不調の時に「安藤ではダメだ」「彼女の時代は終わった」と騒ぎ立てられると、気持ちを持ち直すことが容易でなくなりました。ですから周囲の人達は安藤をメディアから遠ざけようとしましたし、本人も雑音を耳に入れないようにしていました。コーチ陣が好調の時はキム・ヨナを上回る表現力と断言する安藤の演技は、ガラス細工のように繊細な作業と集中力を要したのです。
個人的な安藤美姫の感想
とにかくメディアや世論に翻弄されたスケーターだったと思います。過剰にチヤホヤされ、それで調子に乗ったとしても17歳の女の子を責めるのは酷だと思いますし、その後に手の平を返されてバッシングを受けたことによってメディア不審になるのも当然だと思います。そしてそれら移り気な世論を気にしてしまったことが、さらに彼女のキャリアに悪い影響を与えたように思います。もう少しエゴイスティックに、自分のことだけに集中していればと思う部分もありますが、それが安藤らしさでもあったのでしょう。2011年のシーズンは、本当に神がかったシーズンでした。そんな安藤がメディアに嫌われ、ひっそりと引退したのは、少し寂しい思いがしました。思い通りに取材を受けてくれない安藤に苛立つメディアが安藤を悪く書き、それに世間が乗って安藤をバッシングし続けたのは気の毒に思います。安藤は世界最高のスケーターでしたし、それは実績を見れば明らかです。安藤美姫と浅田真央というトップスケーター2人が同時に存在した21世紀初頭は、奇跡的な時間だったのだと思います。
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