なぜ韓国は日本に謝罪と補償を求めるのか
天皇への謝罪要求が問題になっているように、韓国は日本に謝罪を要求し続けています。日本は過去に謝罪したにも関わらず、繰り返し行われる謝罪要求に反発するようになりました。この不幸な韓国との歴史認識問題を少し考えてみたいと思います。
ジョージ・ワシントン大学、プリンストン大学、ハーバード大学で学び博士号を取得すると、韓国独立のための活動を開始します。李承晩が朝鮮半島に戻るのは、日本の敗戦が確定し、朝鮮のアメリカの統治が始まった1945年です。つまり李承晩は、日本の統治時代を知らない韓国人なのです。
アメリカにとって李承晩は英語で会話ができ、アメリカの考え方を知る韓国人であり、韓国独立を以前から願っている人物でした。反共主義者でもあり、アメリカが統治する朝鮮半島に、これほどピッタリの人物はいなかったと思います。
李承晩の強烈な反共主義者は、やや行き過ぎた結果をもたらします。1948年には済州島四・三事件では、南朝鮮労働党が済州島の住民とともに蜂起します。李承晩政権は住民らを攻撃して鎮圧しますが、政府の方針に反発した軍人たちが反旗を翻して朝鮮半島でも戦闘が始まります。李承晩は非武装の住民を含めて数万人を殺害しました。
さらに保導連盟事件では、共産主義者と疑われる人々を処刑しました。その数は数十万人とも100万人を超えるとも言われます。恐怖政治は反発を招き、アメリカでも李承晩の行き過ぎた行為に韓国を任せられないという声が出ます。しかし国務長官のジョン・フォスター・ダレスは、問題は多いものの李承晩の強烈な反共主義を歓迎していました。アメリカにとっても共産主義は最大の脅威だったのです。
さらに朝鮮戦争が起こると、国民防衛軍事件が起こります。軍の一部の者が、軍事物資や米などを着服した事件で、9万人もの国民防衛軍兵士が餓死しました。国会でこれが暴露されると、着服金の一部が李承晩の政治資金になっていたこともわかり、李承晩は軍隊からの支持も危うくなっていきました。
そして韓国が憎むべき敵として、日本を徹底的に悪者にしました。日本統治時代にはアメリカに住んでいたので実体験はありませんでしたが、独立した韓国が最貧国の一つなのは日本が悪いとしたのです。こうして国民の不満を外部に向けさせました。さらに日本から多額の賠償金を取ることを言い続け、国民に希望を与えました。支持基盤が危うくなっていた李承晩にとって、反日と賠償金は絶対に必要だったはずです。
李承晩は日本統治時代を認めず、以前から大韓民国は存在し、日本からの独立のために戦っていたとしました。そこで李承晩はサンフランシスコ講和条約の際に、韓国を連合国に加えるようにアメリカに要請します。もちろん「当時の韓国は日本の一部」と却下されますが、ブレることなく韓国は日本と戦って勝利したと言い続けます。ですから李承晩にとって、敗戦国の日本に賠償金を要求するのは当然のことでした。
日本は戦争をしていないから賠償金を払えないとし、むしろ韓国から引き揚げた際に残された資産の返却や補償を求めます。李承晩は怯むことなく日本に要求を続け、朝鮮戦争が勃発すると自分なしでは韓国がまとまらないとアメリカにアピールして、日本を牽制します。
また李承晩ラインの宣言も絶妙で、日本の軍隊が解体され、自衛隊も存在しない空白期間を利用して行われました。サンフランシスコ講和条約に違反していますが、韓国は調印していなかったので、主権が回復していない日本は、漁師が殺害されても抗議するぐらいしかできなかったのです。これは日本に警察予備隊(今日の自衛隊)の発足につながりました。
そしてこれは別に書きたいと思いますが、日本が韓国に要求されるままに謝罪を続けたことが批判されることがあります。これについては日本の政治家は、韓国が怖かったのだと思います。新潟日赤センター爆破未遂事件、金大中拉致事件など、韓国は日本国内でさまざまな謀略を行ってきました。韓国にたてつくと、自身の身が危ないと感じたとしても不思議ではありません。
こうした歴史的背景が、あまり語られないというのも不思議な気がします。
李承晩初代大統領
最初に日本に謝罪と賠償を声高に求めたのは、韓国初代大統領の李承晩(りしょうばん)です。李承晩は、1897年に李氏朝鮮の国王である高宗の退位を求める文書を配布して、逮捕されます。その後特赦で刑務所を出ると、アメリカに渡りました。それから6年後に韓国併合があります。※李承晩と妻のフランチェスカ |
ジョージ・ワシントン大学、プリンストン大学、ハーバード大学で学び博士号を取得すると、韓国独立のための活動を開始します。李承晩が朝鮮半島に戻るのは、日本の敗戦が確定し、朝鮮のアメリカの統治が始まった1945年です。つまり李承晩は、日本の統治時代を知らない韓国人なのです。
アメリカにとって李承晩は英語で会話ができ、アメリカの考え方を知る韓国人であり、韓国独立を以前から願っている人物でした。反共主義者でもあり、アメリカが統治する朝鮮半島に、これほどピッタリの人物はいなかったと思います。
韓国独立に向けて
韓国が独立するためには強い自立心が必要で、親日派は邪魔でした。そして李承晩にとって共産主義は大きな脅威でした。ソ連で教育を受けた金日成(後の北朝鮮指導者)が北部にいましたし、自由社会の実現に共産主義の魔の手は絶対に避けるべきものでした。李承晩の強烈な反共主義者は、やや行き過ぎた結果をもたらします。1948年には済州島四・三事件では、南朝鮮労働党が済州島の住民とともに蜂起します。李承晩政権は住民らを攻撃して鎮圧しますが、政府の方針に反発した軍人たちが反旗を翻して朝鮮半島でも戦闘が始まります。李承晩は非武装の住民を含めて数万人を殺害しました。
さらに保導連盟事件では、共産主義者と疑われる人々を処刑しました。その数は数十万人とも100万人を超えるとも言われます。恐怖政治は反発を招き、アメリカでも李承晩の行き過ぎた行為に韓国を任せられないという声が出ます。しかし国務長官のジョン・フォスター・ダレスは、問題は多いものの李承晩の強烈な反共主義を歓迎していました。アメリカにとっても共産主義は最大の脅威だったのです。
さらに朝鮮戦争が起こると、国民防衛軍事件が起こります。軍の一部の者が、軍事物資や米などを着服した事件で、9万人もの国民防衛軍兵士が餓死しました。国会でこれが暴露されると、着服金の一部が李承晩の政治資金になっていたこともわかり、李承晩は軍隊からの支持も危うくなっていきました。
独裁者は外部に敵を作る
よく誤解されますが、独裁者にとって最も大事なのは国民の支持です。国民の支持を失えばクーデターで殺されてしまいます。では自国民を多く殺害した独裁者は国民の支持を得るために何をするかというと、外部に敵を作り出すのです。李承晩は反共主義者なので、共産主義者が自国内に侵入する恐怖を説きました。そして韓国が憎むべき敵として、日本を徹底的に悪者にしました。日本統治時代にはアメリカに住んでいたので実体験はありませんでしたが、独立した韓国が最貧国の一つなのは日本が悪いとしたのです。こうして国民の不満を外部に向けさせました。さらに日本から多額の賠償金を取ることを言い続け、国民に希望を与えました。支持基盤が危うくなっていた李承晩にとって、反日と賠償金は絶対に必要だったはずです。
巧みさと強引さが混じる交渉
1948年に出された大韓民国の憲法の前文には「大韓国民は、3・1独立運動により建設された大韓民国臨時政府の法統を継承する」と書かれています。大韓民国成立前に憲法が発布されたのも驚きですが、なんとこの前文によると大韓民国の成立は、3・1独立運動が起こった1919年になってしまいます。※大韓民国憲法 |
李承晩は日本統治時代を認めず、以前から大韓民国は存在し、日本からの独立のために戦っていたとしました。そこで李承晩はサンフランシスコ講和条約の際に、韓国を連合国に加えるようにアメリカに要請します。もちろん「当時の韓国は日本の一部」と却下されますが、ブレることなく韓国は日本と戦って勝利したと言い続けます。ですから李承晩にとって、敗戦国の日本に賠償金を要求するのは当然のことでした。
日本は戦争をしていないから賠償金を払えないとし、むしろ韓国から引き揚げた際に残された資産の返却や補償を求めます。李承晩は怯むことなく日本に要求を続け、朝鮮戦争が勃発すると自分なしでは韓国がまとまらないとアメリカにアピールして、日本を牽制します。
また李承晩ラインの宣言も絶妙で、日本の軍隊が解体され、自衛隊も存在しない空白期間を利用して行われました。サンフランシスコ講和条約に違反していますが、韓国は調印していなかったので、主権が回復していない日本は、漁師が殺害されても抗議するぐらいしかできなかったのです。これは日本に警察予備隊(今日の自衛隊)の発足につながりました。
まとめ
李承晩は不正選挙が明るみに出て失脚しますが、政情不安の韓国を力づくでまとめ上げ、不満が出ると日本に敵意を向けさせる施策は一定の成果を上げていました。そのため反日政策は朴正煕大統領に受け継がれ、その後も継承されていくことになりました。そしてこれは別に書きたいと思いますが、日本が韓国に要求されるままに謝罪を続けたことが批判されることがあります。これについては日本の政治家は、韓国が怖かったのだと思います。新潟日赤センター爆破未遂事件、金大中拉致事件など、韓国は日本国内でさまざまな謀略を行ってきました。韓国にたてつくと、自身の身が危ないと感じたとしても不思議ではありません。
こうした歴史的背景が、あまり語られないというのも不思議な気がします。
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