ピンクレディーの紅白辞退騒動 /かつて紅白は絶対権力だった
先日、テレビにピンクレディーが出ていて、懐かしさのあまりに手を止めて見てしまいました。当時の怪物的人気を紹介し、さまざまなエピソードが出て来るのですが、紅白辞退というピンクレディー最大のトラブルには触れられませんでした。人気絶頂から一気に転落し、解散コンサートも閑散とした中で行われた当時の騒動を振り返ってみたいと思います。
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肌の露出の多い衣装にエロティックなダンスの歌謡デュオは、当初は深夜のお色気番組しか出演枠がありませんでした。しかし子供でも覚えられる単純なダンスが人気を得て、子供達の間で大人気となります。76年にシングル「ペッパー警部」は売上60万枚(出荷ベースなら100万枚)の大ヒットになり、ここから出す曲のほとんどがオリコンチャート1位になっていきます。
77年からは、1日に7本から9本のテレビに出演し、グッズはピンクレディーの写真をつければ何でも大ヒットし、子供向けの絵本まで出版されて大ヒットしています。最初は女の子向けの文具や手鏡などでしたが、やがて弁当箱だろうが自転車だろうが何でもかんでもピンクレディーの写真が使われるようになり、それが大ヒットする異常人気でした。こうして幼児から大人まで人気を得たピンクレディーは、日本全土を騒がす社会現象になっていきました。
ピンクレディーの大ヒットにより事務所には潤沢な資金が入りますが、警察は総会屋が芸能事務所を使って荒稼ぎしていると見て捜査に乗り出します。ピンクレディーが総会屋の資金源だと警察は見ていたわけです。何度も事情聴取が行われ、T&Cミュージックは書類送検されます。これをメディアが放っておくはずもなく、ピンクレディーと総会屋の関係が何度も週刊誌を賑わすことになりました。さらにT&Cミュージックの設立資金は、小川が銀行を脅して用意させたという疑惑もあり、ピンクレディーは一気に黒い噂が広がります。しかし当時の私の記憶では、この騒動は人気にほとんど影響を与えていませんでした。こうした事務所の黒い噂を弾き飛ばすほどの熱狂があり、その噂の渦中でも「サウスポー」や「ウォンテッド」などが大ヒットしていきました。
かねてからチャリティ番組を行いたかったが、多忙のため大晦日しかスケジュールを抑えられなかったという理由ですが、NHKは辞退に激怒し、芸能マスコミも追随してピンクレディーを一斉に批難します。記者会見を開いたピンクレディーには、国民的関心が高い番組を辞退するとは何様なのかと言わんばかりの質問が続きました。
この時の会見の記憶が少しだけ残っていますが、かなり険悪な雰囲気で質問というより批難めいた言葉が記者から何度も飛び出し、ピンクレディーは質問に答えるというより謝罪するといった感じでした。この紅白辞退騒動から、一気にピンクレディーの評判は悪化し、売れていることを鼻にかけていい気になっている小娘として扱われるようになります。ここに前記の総会屋との関係も合わせて取り上げられるようになり、ピンクレディーの人気は急落していきました。
アメリカに進出を始めたのは人気絶頂の78年で、ラスベガスでショーを行っています。そこから79年にはシングルKiss in the darkでレコードデビューし、ビルボード ホット100で37位となり大成功しています。その人気を見たNBC(アメリカ3大ネットワークの一つ)が、番組のオファーを出しました。コメディアンのジェフ・アルトマンとの共演で製作されたバラエティ番組、PIink Lady & Jeffです。NBCは7年契約していて、10回の放送が予定されていました。ところが6回で終了したことに加え、アメリカでも酷評されることが多いようです。
豪華なゲストを呼んだNBCの期待値は高かったようですが、期待していたほど視聴率が振るわなかったことに加え、ケイが帰国を強く希望したことが番組終了の原因でした。しかし現在までアメリカで冠番組を持った日本人は皆無で、大人気とはいかなくともそこそこの視聴率を取った事実は驚異的とも言えます。さらに数年前にこの番組のDVDがアメリカで発売されており、一部には根強い人気があったことをうかがわせます。またアメリカでの活動は、日本よりもセクシー路線を強く打ち出しており、日本とのイメージギャップを嫌って本人たちも事務所もアメリカでの様子を日本に出すことに消極的でした。さらに79年には紅白辞退で日本でのピンクレディーは悪評が先行しており、アメリカ進出も失敗と強調されて報じられていたのです。
しかしピンクレディーの時代の紅白は視聴率が70パーセントを超える怪物番組で、辞退などは言語道断の雰囲気がありました。人気絶頂のピンクレディーであっても、NHKに逆らうのは不可能だったのです。日本を席巻したピンクレディーは激しいバッシングの中で解散し、解散コンサートもガラガラの状態で行われ寂しい終焉を迎えました。
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ピンクレディーとは
高校、大学で同級生だったミーとケイの2人は、オーディション番組の「スター誕生」に出場したことから、プロデビューにつながります。スカウトしたのはT&Cミュージックで、浅田美代子が結婚退社した同社にとって、社運を賭けたデビューだったとも言われています。肌の露出の多い衣装にエロティックなダンスの歌謡デュオは、当初は深夜のお色気番組しか出演枠がありませんでした。しかし子供でも覚えられる単純なダンスが人気を得て、子供達の間で大人気となります。76年にシングル「ペッパー警部」は売上60万枚(出荷ベースなら100万枚)の大ヒットになり、ここから出す曲のほとんどがオリコンチャート1位になっていきます。
77年からは、1日に7本から9本のテレビに出演し、グッズはピンクレディーの写真をつければ何でも大ヒットし、子供向けの絵本まで出版されて大ヒットしています。最初は女の子向けの文具や手鏡などでしたが、やがて弁当箱だろうが自転車だろうが何でもかんでもピンクレディーの写真が使われるようになり、それが大ヒットする異常人気でした。こうして幼児から大人まで人気を得たピンクレディーは、日本全土を騒がす社会現象になっていきました。
事務所のスキャンダル
T&Cミュージックは、証券会社と保険屋を辞めた2人のサラリーマンが、一念発起して芸能界で一旗揚げようとしたことから始まりました。2人はアクト・ワンという小さな芸能事務所に接触し、アクト・ワンが抱えている4000万円の借金とともに会社を自分たちのものにしました。ところが看板スターだった浅田美代子が吉田拓郎との結婚で引退することが決まっており、看板スターなしで4000万円の借金を返さなくてはならない厳しい運営を迫られていました。そこで2人は同郷の総会屋、小川薫に借金の肩代わりとスポンサーになってもらうよう依頼し、小川が快諾したことでT&Cミュージックと社名を変更してスタートしました。※小川薫の書籍 |
ピンクレディーの大ヒットにより事務所には潤沢な資金が入りますが、警察は総会屋が芸能事務所を使って荒稼ぎしていると見て捜査に乗り出します。ピンクレディーが総会屋の資金源だと警察は見ていたわけです。何度も事情聴取が行われ、T&Cミュージックは書類送検されます。これをメディアが放っておくはずもなく、ピンクレディーと総会屋の関係が何度も週刊誌を賑わすことになりました。さらにT&Cミュージックの設立資金は、小川が銀行を脅して用意させたという疑惑もあり、ピンクレディーは一気に黒い噂が広がります。しかし当時の私の記憶では、この騒動は人気にほとんど影響を与えていませんでした。こうした事務所の黒い噂を弾き飛ばすほどの熱狂があり、その噂の渦中でも「サウスポー」や「ウォンテッド」などが大ヒットしていきました。
紅白辞退騒動
77年にケイが盲腸で入院し、複数の番組に出られない時期がありました。これに焦ったのがNHKで、紅白歌合戦に出演できるのかどうなのか機を揉むことになります。事務所にはNHKからの問い合わせ電話が何度もあり、それが事務所の社長に嫌な印象を残します。高圧的な態度で「出られるのかどうかハッキリしろ」と迫られた社長は、なぜここまで言われなくてはならないのかと憤り、このまま人気を維持して来年はこちらから辞退してやろうと考えるようになりました。そして78年の紅白を辞退し、裏番組に出演することを決めました。かねてからチャリティ番組を行いたかったが、多忙のため大晦日しかスケジュールを抑えられなかったという理由ですが、NHKは辞退に激怒し、芸能マスコミも追随してピンクレディーを一斉に批難します。記者会見を開いたピンクレディーには、国民的関心が高い番組を辞退するとは何様なのかと言わんばかりの質問が続きました。
この時の会見の記憶が少しだけ残っていますが、かなり険悪な雰囲気で質問というより批難めいた言葉が記者から何度も飛び出し、ピンクレディーは質問に答えるというより謝罪するといった感じでした。この紅白辞退騒動から、一気にピンクレディーの評判は悪化し、売れていることを鼻にかけていい気になっている小娘として扱われるようになります。ここに前記の総会屋との関係も合わせて取り上げられるようになり、ピンクレディーの人気は急落していきました。
アメリカ進出は失敗か?
日本では人気低迷によりアメリカに渡り、失敗して帰国したと語られました。当時、私もそう思っていたのは、メディアがこぞってそのように言っていたからです。しかし実際にはかなり違ったようです。アメリカに進出を始めたのは人気絶頂の78年で、ラスベガスでショーを行っています。そこから79年にはシングルKiss in the darkでレコードデビューし、ビルボード ホット100で37位となり大成功しています。その人気を見たNBC(アメリカ3大ネットワークの一つ)が、番組のオファーを出しました。コメディアンのジェフ・アルトマンとの共演で製作されたバラエティ番組、PIink Lady & Jeffです。NBCは7年契約していて、10回の放送が予定されていました。ところが6回で終了したことに加え、アメリカでも酷評されることが多いようです。
豪華なゲストを呼んだNBCの期待値は高かったようですが、期待していたほど視聴率が振るわなかったことに加え、ケイが帰国を強く希望したことが番組終了の原因でした。しかし現在までアメリカで冠番組を持った日本人は皆無で、大人気とはいかなくともそこそこの視聴率を取った事実は驚異的とも言えます。さらに数年前にこの番組のDVDがアメリカで発売されており、一部には根強い人気があったことをうかがわせます。またアメリカでの活動は、日本よりもセクシー路線を強く打ち出しており、日本とのイメージギャップを嫌って本人たちも事務所もアメリカでの様子を日本に出すことに消極的でした。さらに79年には紅白辞退で日本でのピンクレディーは悪評が先行しており、アメリカ進出も失敗と強調されて報じられていたのです。
まとめ
紅白は80年代から人気の低下が始まり、90年代には辞退するのが当たり前になりました。ZARDの体調不良などはともかく、「恥ずかしいから」(井上陽水)、「興味がない」(スピッツ、大黒摩季など)、「テンションが上がらない」(都はるみ)などの紅白軽視ともとれる理由を挙げても、全く問題がなく反対にそれらのコメントが話題になるほどでした。しかしピンクレディーの時代の紅白は視聴率が70パーセントを超える怪物番組で、辞退などは言語道断の雰囲気がありました。人気絶頂のピンクレディーであっても、NHKに逆らうのは不可能だったのです。日本を席巻したピンクレディーは激しいバッシングの中で解散し、解散コンサートもガラガラの状態で行われ寂しい終焉を迎えました。
関連記事
芸能事務所興亡史 /なぜ芸能事務所は強大な力を得たのか
60年以上続いた音楽バブルの終焉 /なぜ音楽は売れなくなったのか
レコード会社が消費者を裏切った日 /CCCDの大罪を振り返る
それはムネオハウスから始まった そのとき音楽の楽しみ方が変わった
上岡龍太郎の芸人論と21世紀の音楽業界
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