バディ・ガイの復活物語 /孫に見せたかったステージ
グラミー賞授賞式で、名前を呼ばれたバディ・ガイは「奇跡のようだぜ」と、驚きと興奮を隠しませんでした。この年、全盛期をとっくに過ぎたブルース・ミュージシャンだったバディは、劇的な復活を遂げました。彼の新作アルバムを買い求めた人達の多くは、かつてのバディの全盛期すら知らず、全盛期を知っている人の中には、バディはとっくに死んでいると思っている人もいました。
60年代に入ると、ローリング・ストーンズやエリック・クラプトンの影響でブルースのブームが起こりますが、その時に脚光を浴びたのはハウリン・ウルフやマディウォーターズなど、バディより古い世代のミュージシャンでした。
アルバムリリースを重ね、シカゴのブルース界の重鎮の1人としてなを連ねるようになりますが、相変わらずセールス的には厳しい状態が続き、ついに81年にアリゲーター・レーベルから出した「ストーン・クレイジー」以来、アルバムを出すこともできなくなりました。
「プリンスのアルバムは全部聞いたから、次は誰のアルバムを聴いたらいい?」
息子に質問されたバディは、「次はジミ・ヘンドリックスだな。プリンスだってジミの大ファンなんだぞ」と答えます。早速ジミのアルバムを聴き漁っていた息子でしたが、ある日血相を変えてバディのところにやってきます。
「ジミのビデオを見てたら、一番影響を受けたのはバディ・ガイって言ってた。お父さんは有名なミュージシャンだったの?」
息子はバディがシカゴの伝説的ブルースマンだということを知りませんでした。息子に自分の本当の姿を知ってほしいと望んだバディは、息子が大人になると自身が経営するクラブ「バディ・ガイ・レジェンド」に連れて行き、ステージに立つ姿を見せました。
バディは大きく自信を取り戻し、レコード会社に売り込みますが、全てのレコード会社から断られます。彼らはバディ・ガイの時代は終わったと言います。バディは再び失意に沈むことになります。
「友人のクラプトンやキース・リチャーズたちはみんな『バディ、あんたはまだまだやれる』って言ってくれる。だけどレコード会社は誰も俺を信じてくれない。もしアルバムを出さしてくれるなら、真冬の池にたって喜んで飛び込むさ」
しかし制作料は格安で、旅費もありませんでした。バディのバンドメンバー全員をフランスに連れて行く旅費が無いのです。
「俺は家を売ってでもフランスに行きたい。しかしバンドのメンバーは、そうはいかない。目の前にチャンスがあるのに、どうしようもないんだ」
再び悲観にくれたバディは、アコースティックギター1本を持って渡仏し、弾き語りのアルバムでいこうと決意しました。セールスは見込めませんが、何が何でもこのチャンスを逃したくなかったのです。そんな時に電話がかかってきました。ドラマーのリッチー・ヘイワードからでした。
「バディ、ドラマーを探してるって?」
「申し出は本当に嬉しいが、君のような有名なドラマーを雇う金がないんだ。旅費分すらない」
「バディ・ガイとのレコーディングは名誉なことだ。ギャラなんか問題じゃない」
これで決まりでした。
バンドがないと嘆いていたバディは、突如として超一流のバンドを手にしたのです。プロデューサーからの注文は「今、最高のバディ・ガイを見せてほしい」という一点でした。長年の鬱憤を晴らすように、バディは全力でギターを泣かせ、シャウトします。激しいノリの良い曲から、伝統的なブルーススタイル、そして亡き友人であるスティーヴィー・レイ・ヴォーンへの追悼曲も含まれました。
その頃、アメリカの音楽メディアは大物ミュージシャンが続々とフランス入りしていることを掴んでいました。さらにそれがレコーディングであり、バディ・ガイのレコーディングだとわかると大きな興味を集めました。なぜ今バディ・ガイなのか?なぜフランス入りなのか?なぜバディ・ガイはこれほど多くのメンバーを集めることができたのか?憶測が憶測を呼びました。バディの新アルバムは、リリース前から注目が集まっていたのです。
イギリスでもメロディメーカーのチャートでもトップ100入りを果たし、ニュージーランドでもヒットチャート入りを果たしました。さらにグラミー賞も受賞し、バディは様々な音楽フェスに引っ張りだこになります。
ホウキでポーズを決めて歌っていた孫はバディに気づくと走ってやってきました。
「僕もおじいちゃんみたいになりたいよ!」
その言葉にバディはむせび泣いたといいます。
すでに80歳を超えたバディは、今も自身の店で歌っています。
不運の男
58年にコブラ・レコードからデビューしたバディですが、当時はブルースの人気は陰りが見られていました。ノリの良いリズム&ブルース、そしてロックンロールが全盛で、バディは一流と認められながらも、セールス的には大ヒットに恵まれません。※50年代のバディ・ガイ |
60年代に入ると、ローリング・ストーンズやエリック・クラプトンの影響でブルースのブームが起こりますが、その時に脚光を浴びたのはハウリン・ウルフやマディウォーターズなど、バディより古い世代のミュージシャンでした。
※マディ・ウォーターズ |
アルバムリリースを重ね、シカゴのブルース界の重鎮の1人としてなを連ねるようになりますが、相変わらずセールス的には厳しい状態が続き、ついに81年にアリゲーター・レーベルから出した「ストーン・クレイジー」以来、アルバムを出すこともできなくなりました。
息子の言葉に驚く
バディの息子は父親の血を受け継ぎ、幼い頃から音楽に夢中でした。ギターであらゆる曲をコピーし、バディは息子にギターのアドバイスもしていました。「プリンスのアルバムは全部聞いたから、次は誰のアルバムを聴いたらいい?」
息子に質問されたバディは、「次はジミ・ヘンドリックスだな。プリンスだってジミの大ファンなんだぞ」と答えます。早速ジミのアルバムを聴き漁っていた息子でしたが、ある日血相を変えてバディのところにやってきます。
※ジミ・ヘンドリックス |
「ジミのビデオを見てたら、一番影響を受けたのはバディ・ガイって言ってた。お父さんは有名なミュージシャンだったの?」
息子はバディがシカゴの伝説的ブルースマンだということを知りませんでした。息子に自分の本当の姿を知ってほしいと望んだバディは、息子が大人になると自身が経営するクラブ「バディ・ガイ・レジェンド」に連れて行き、ステージに立つ姿を見せました。
エリック・クラプトンとの共演
バディ・ガイ・レジェンドにエリック・クラブが立ち寄り、バディの演奏を聴くと、すぐにゲストミュージシャンとしての参加をオファーしてくれました。クラプトンは共演できることを光栄に思い、大観衆の前でバディを紹介しました。※バディ・ガイと共演するエリック・クラプトン(右) |
バディは大きく自信を取り戻し、レコード会社に売り込みますが、全てのレコード会社から断られます。彼らはバディ・ガイの時代は終わったと言います。バディは再び失意に沈むことになります。
アルバムへの想い
バディがアルバムにこだわったのは、孫の存在でした。彼のクラブはアルコールを提供するため、店に孫を連れて行くことは法律で禁じられています。孫に自分の勇姿を見せたくても、自分が名うてのミュージシャンだと知ってもらえる術がありません。だからアルバムが必要だと思ったのです。※83年のスティーヴィー・レイ・ヴォーンとの共演 |
「友人のクラプトンやキース・リチャーズたちはみんな『バディ、あんたはまだまだやれる』って言ってくれる。だけどレコード会社は誰も俺を信じてくれない。もしアルバムを出さしてくれるなら、真冬の池にたって喜んで飛び込むさ」
シルバーストーン・レコード
フランスのシルバーストーン・レコードの社長は、アメリカのブルースのファンでした。ある日、クラプトンのビデオを見ているとバディ・ガイが出演しているのを見て驚きます。彼はとっくにバディが死んだと思っていたのです。彼はすぐにバディの連絡先を調べて、アルバム制作をオファーしました。バディは飛び上がって喜び、フランス行きを決意します。しかし制作料は格安で、旅費もありませんでした。バディのバンドメンバー全員をフランスに連れて行く旅費が無いのです。
「俺は家を売ってでもフランスに行きたい。しかしバンドのメンバーは、そうはいかない。目の前にチャンスがあるのに、どうしようもないんだ」
再び悲観にくれたバディは、アコースティックギター1本を持って渡仏し、弾き語りのアルバムでいこうと決意しました。セールスは見込めませんが、何が何でもこのチャンスを逃したくなかったのです。そんな時に電話がかかってきました。ドラマーのリッチー・ヘイワードからでした。
※リッチー・ヘイワード |
「バディ、ドラマーを探してるって?」
「申し出は本当に嬉しいが、君のような有名なドラマーを雇う金がないんだ。旅費分すらない」
「バディ・ガイとのレコーディングは名誉なことだ。ギャラなんか問題じゃない」
これで決まりでした。
集結したミュージシャン
リッチー・ヘイワードの呼びかけに、続々とミュージシャンがフランスに集まりました。ダイアー・ストレイツのマーク・ノップラー、ジェフ・ベック、グレッグ・リザーブ、そして「なんで最初に相談してくれなかったんだ?」とボヤきながらエリック・クラプトンもフランス入りしました。※マーク・ノップラー |
バンドがないと嘆いていたバディは、突如として超一流のバンドを手にしたのです。プロデューサーからの注文は「今、最高のバディ・ガイを見せてほしい」という一点でした。長年の鬱憤を晴らすように、バディは全力でギターを泣かせ、シャウトします。激しいノリの良い曲から、伝統的なブルーススタイル、そして亡き友人であるスティーヴィー・レイ・ヴォーンへの追悼曲も含まれました。
※ジェフ・ベック |
その頃、アメリカの音楽メディアは大物ミュージシャンが続々とフランス入りしていることを掴んでいました。さらにそれがレコーディングであり、バディ・ガイのレコーディングだとわかると大きな興味を集めました。なぜ今バディ・ガイなのか?なぜフランス入りなのか?なぜバディ・ガイはこれほど多くのメンバーを集めることができたのか?憶測が憶測を呼びました。バディの新アルバムは、リリース前から注目が集まっていたのです。
異例の大ヒットと旋風
新アルバム「アイヴ・ガット・ザ・ブルース」は、発売と同時にビルボードチャートを駆け上がり、ビルボード200では136位まで上りました。ブルースアルバムとしては、異例の大ヒットです。※アイヴ・ガット・ザ・ブルース |
イギリスでもメロディメーカーのチャートでもトップ100入りを果たし、ニュージーランドでもヒットチャート入りを果たしました。さらにグラミー賞も受賞し、バディは様々な音楽フェスに引っ張りだこになります。
おじいちゃんのマスタング・サリー
大忙しとなったバディが家に帰ると、孫がホウキをギターに見立てて、歌っていました。テレビではバディのシングルカットされた曲「マスタング・サリー」のプロモーション・ビデオが流れています。バディのパワフルなギターに、ジェフ・ベックの硬質でナイフのような鋭いギターが絡む大ヒットナンバーです。ホウキでポーズを決めて歌っていた孫はバディに気づくと走ってやってきました。
「僕もおじいちゃんみたいになりたいよ!」
その言葉にバディはむせび泣いたといいます。
その後のバディ・ガイ
91年以降、定期的にアルバムをリリースしながら、ライブ活動を続けています。バディは母親の「あなたが有名になったら、どこにいてもバディ・ガイってわかるように水玉模様の車に乗るといいわ」という教えを守り、水玉模様のギターを使っています。すでに80歳を超えたバディは、今も自身の店で歌っています。
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