松岡修造はなぜ応援し続けるのか

「ボロクソに書いてくださいね」松岡修造は、自分の不甲斐なさにインタビューを断り続け、どうしてもと粘るNumber誌のインタビューを受ける条件として、自分のことをボロクソに書くように依頼しました。怪我に苦しみ、アトランタオリンピックで1回戦敗退の頃だったと思います。



松岡修造は苦しみ、悩み、弱音を吐くことも多い人でした。負けた後に「死んでしまいたい」と語ったこともあります。今日の陽気でハイテンションな姿とは違い、現役の頃は影を引きずるような一面がありました。

兄の存在

1歳年上の兄、松岡宏泰は幼い頃からテニスに非凡な才能を見せ、ずんぐりむっくりな体型の修造とは異なり、体格にも恵まれていました。温厚で礼儀正しく勉強も常にトップの宏泰に比べて、修造は腕白坊主で勉強よりも大人にイタズラをしてばかりの少年だったといいます。

※兄の松岡宏泰東宝東和社長

テニスのコーチは宏泰にばかり時間を割き、自分にも教えてくれとねだる修造に、慰めのような言葉をかけていました。幼いながら、修造は自分にはテニスの才能はないことを自覚し、その自覚に反してテニスに情熱を注ぐようになります。才能がなくても、なんとかして上手くなりたいと願い、どんどんテニスに入れ込んでいきました。

極貧生活

父親の猛反対を受けながらプロデビューしたため、金銭的な援助は一切受けられない状況でした。幸いマネジメント会社が松岡に興味を持って契約してくれたことから、年間300万円の活動費を得ることができました。しかし300万円で海外を転戦しながら、プロ生活を送るというのは極貧生活を意味しました。

 ※高校時代の松岡修造

最も安いモーテルを相部屋で借り、板張りの床で寝る生活が続き、空腹のあまりとなりのテーブルのパン盗むこともあったそうです。そして貧乏だけならまだしも、当時は日本人というだけでテニス界では相手にしてもらえませんでした。

人種の壁

ランキング下位で日本人の松岡は、練習相手に困り壁打ちを続けます。たまに1人で壁打ちをしている選手を見かけると、必死に頭を下げて練習相手になってくれと頼み、蔑むような視線に耐えなくてはなりませんでした。



コートを予約させてくれない。予約しても取り消される。ロッカーを使わせてもらえない。日本人に使わせるぐらいなら、地元の子供に貸した方がいい。だって日本人がテニスをできるわけがないんだから。そんな空気の中、松岡は練習相手を求めて頭を下げ続けます。さらにコートに入れてもらえないこともあり、5時に起きてフェンスをよじ登ってコートに入っていました。

かつて伊達公子の練習パートナーとして呼ばれた日本人男性が、予約していたにも関わらずロッカーが使えず、外で着替えることになりました。それを知った伊達公子は、カウンターを叩きながら英語で30分以上怒鳴り続け、パートナーのロッカーを取り返しました。「外で着替えても平気だよ」という男性に、伊達は「ここで簡単に引き下がったら、明日はコートが使えなくなる」と言ったそうです。80年代から90年代にかけて、まだまだ日本人は、テニスの蚊帳の外に置かれていたのです。

孤独な松岡修造

極貧生活を続け、人種の壁に阻まれ、友達もいない松岡は孤独を深めていきます。そんな松岡の唯一の楽しみは、日本から持ってきた漫画「エースをねらえ!」を繰り返し読むことでした。後に松岡が試合中に叫ぶ謎の気合「オカ!」は、この漫画の主人公、岡ひろみのことです。



やがて松岡がATPでタイトルを獲るようになっても、孤独感は癒されませんでした。日本から遠く離れた地には、松岡を応援する人は皆無で、常に相手の応援の方が優っていました。テニスは試合が始まるとコーチのアドバイスはおろか、ゼスチャーでコーチが気持ちを伝えることさえ禁じています。最も孤独なスポーツと言われるテニスを、松岡は海外の地という孤独な環境で戦っていました。

ウインブルドンの応援

95年のウインブルドンは、膝の怪我のリハビリ、ウイルス性の病気を乗り越えてたどり着いた舞台でした。しかし3回戦ではハビエル・フラナに苦戦します。両足が震えて体力の限界がそこまで来ていました。このまま負けるかもしれないと思い始めた時に、松岡の耳に日本語が飛び込んできます。

「修造ー!自分を信じていけー!」

その瞬間、全身に熱い血が巡り、力が湧いてきたと言います。俺はまだ負けていない。俺を応援してくれる人がいるじゃないか。孤独の中で戦い続けてきた松岡が、たった一つの言葉で勇気を得たのです。3時間45分という長期戦を制し、松岡は4回戦に進みました。



まとめ

95年のウインブルドンは、ベスト8に進出した松岡修造のテニス人生のハイライトです。その時に松岡は応援によって自分が変わる体験をしました。負けると思っていた試合でも応援で勝つことができた。だから松岡は応援を続けます。絶えず悩み、苦しみ、弱音を吐いて孤独にさいなまれた松岡は、自身の才能のなさを受け入れ、自らに暗示をかけて勇気を振り絞っていました。

それがたった一言の応援で力と勇気が湧いた経験は、なにものにも代え難いものでしょう。翌96年のフェドカップで、怪我に苦しむ伊達公子が女王シュテフィ・グラフと戦った時、松岡は大きな日の丸を振りながら声が枯れるまで応援しました。その気迫に観客は圧倒され、会場が一丸となって伊達の背中を押しました(試合後、伊達に「修造さん、ウルサイ!」と言われている)。

ちなみに95年のウインブルドン4回戦で、マッチポイントの際に松岡が叫んだ言葉は「この一球は絶対無二の一球なり」でした。テニスの大先輩である福田雅之助の言葉であり、松岡が愛読した「エースをねらえ!」にも登場した言葉です。




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