戸田奈津子の映画字幕を考える /誤訳はなぜ起こる?
日本を代表する映画翻訳者、戸田奈津子さんは誤訳の女王と呼ばれ、激しい批判の対象になっています。なぜ戸田さんの字幕には誤訳が多いのか、そしてどうして戸田さんに批判が集中しているのかを考えてみたいと思います。
戸田奈津子さんの略歴
1936年に福岡県の北九州市に生まれます。幼稚園から高校までお茶の水に通い、大学は津田塾大学の英文科を卒業しました。卒業後は生命保険会社に勤務しますが、翻訳の仕事に関心があったため字幕翻訳家の清水俊二氏に師事します。映画字幕の仕事のかたわら翻訳のアルバイトで生計を立てますが、フランシス・F・コッポラが来日した際の通訳を務めたのをきっかけに「地獄の黙示録」の字幕を担当し、以降は字幕翻訳の第一人者として活躍します。
年間に約40本から50本の映画の字幕を担当し、特にメジャー大作のほとんどを担当しているので、映画を見る人なら一度はその名前を見たことがるでしょう。また吹き替え翻訳、映画監督や俳優の来日時の通訳も行っているので、テレビなどでその姿を見た人も多いでしょう。その他には執筆作業なども行っており、幅広く活躍している方です。
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戸田奈津子批判
映画ファンの間では、80年代から翻訳がおかしいことがあると知られていました。しかし声高に戸田さんが批判されるようになるのは、ネットの普及により誤訳の情報が共有されるようになってからです。そしてそれ以外にも2つの切っ掛けがありました。
(1)映画評論家 町山智浩さんの強烈な批判
恐らく、正面切って戸田さんを大声で批判した、最初の人ではないでしょうか。町山さんは多くの誤訳の例を挙げながら、戸田さんばかりを翻訳者に使う現状を手厳しく批判して話題になりました。町山さんの主張は限られた時間の中で翻訳を行うため完璧な仕事ができないのはやむを得ないとしつつ、それでもあり得ないような訳が多すぎるとしており、原語台本に書かれている注釈を読まないで翻訳しているのではないかと疑問を呈していました。
(2)指輪騒動
映画「ロード・オブ・ザ・リング」が公開されると、戸田さんの字幕に対して一部のファンから猛抗議が起こりました。その抗議に賛同者が集まり、配給会社に対して、2作目以降の翻訳者を変更するように要求する署名活動が起こります。これをメディアが取り上げて大きく報じられました。
本作は言語学者のトールキンが執筆し、1954年に第一作が出版されてから長い間熱狂的なファンに支持されてきた、古典小説の映画化です。トールキンは新たな言語の創造を行い、その言語は言語学者の研究の対象にもなっています。言語の研究書や解説書なども、世界中で出版されていルので、趣味で研究する人など熱心なファンが多いことで知られる作品でもあります。
ファンは劇中の翻訳が、本来の言語を無視した意訳になっていることや、最終作の布石になる台詞が変わっていることなどに怒り、配給会社の日本ヘラルドだけでなく監督のピーター・ジャクソンにも抗議の声を届けます。「ロード・オブ・ザ・リング」公式サイトの掲示板は抗議の声が殺到して炎上し、閉鎖されることになりました。
戸田奈津子さんの翻訳の特徴
映画が大好きで、サービス精神に溢れているのが戸田さんの特徴です。そして直訳するのではなく、会話全体の意味を伝える意訳を行うのが特徴です。その意訳は他の翻訳者と比較しても大胆なもので、独自のリズム感を生み出しています。「~を?」「~で?」など、言葉を途中で切ることも多く、ネットでは「なっち語」と呼ばれています。
留学経験がないためかスラングには弱く、SFなどの科学知識を必要とするもの、歴史物、軍事物に関しても翻訳に苦戦している印象があります。また汚い言葉をマイルドに訳しがちで、それが原因で「フルメタル・ジャケット」では、監督のスタンリー・キューブリックから翻訳を外されています。一方でコメディなどは会話をリズミカルに字幕で再現し、軽快な会話を作るのを得意としています。
※映画「フルメタル・ジャケット」の一コマ。なっちは、こういう下品な言葉の翻訳ができません。
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なぜ誤訳が多いのか
(1)時間的な制約
まず翻訳している本数が、異常なほど多いことが考えられます。年間50本といえば、ほぼ1週間に1本のペースで訳す。当然ながらコンスタントに仕事が来るはずもなく、中には1週間で2本や3日で1本を仕上げることもあるでしょう。
時間がないため、先ほどの「ロード・オブ・ザ・リング」では、原作者が残している「翻訳の手引き」はおろか、原作を読んでいないことも明らかで、それがファンの苛立ちをかき立てました。また他の映画に関しても台本があっても読んでいない、原作があっても読んでいないことが多いと思われます。読んでいれば、決して使わないだろうという言葉が使われているからです。
さらに時間がないために、翻訳が完成した後に見返してチェックしていないと思われます。誤訳というより単純なミスが、そのまま劇場公開時の字幕に出てくることがあるからです。英語の意味がわからなくても、画面を見れば意味がわかるような台詞を間違えているのは、見返していれば気がついたはずです。
1週間で仕上げるとなると、原作を読んだり資料集めてチェックする時間がないのも当然です。それに、そもそも納期が短いという話もよく聞きます。戸田さんの誤訳と呼ばれているものの大半が、この時間的な制限によるものだと思います。
(2)配給会社の問題
上記のようなケアレスミスと思われる誤訳に対し、配給会社でも誰もチェックしていないから、そのまま上映されるのだと思います。一度見れば誰もが気づくような誤訳が、そのまま映画館で映し出されるのは不可解です。
映画「レッドドラゴン」でバッキンガム宮殿を「バッキングハム」という不思議な訳をしましたが、英語が分からない人でもその台詞はおかしいと気がついたはずです。まさかバッキンガム宮殿を戸田さんが知らないことはないと思われるので、ケアレスミスだと思いますが、誰かがチェックすれば防げたはずなのです。映画「リング」で「66年に流産」とするべきところを「66回の流産」と訳したのも同様で、配給会社が戸田さんに丸投げしてチェックすら怠っているのではないかと思われます。
(3)専門知識の欠如
先に書きましたが、科学知識や歴史、軍隊用語に関しては基礎知識がないようです。最近は専門家をアドバイザーにつけて翻訳することもあるようですが、翻訳家にあらゆる分野の専門知識を求めるのは、そもそもが酷だと思います。
戸田さんばかりが批判されていますが、例えば薬物に関する翻訳は他の字幕翻訳者でもデタラメなものが散見されます。幻覚を見る薬物、気分が高揚してハイになる薬物、気分が落ち着いて集中力が増す薬物など、種類によって効果がさまざまですが、薬物は全てハイになると勘違いして訳しているものが多く見られます。
(4)意訳のセンス
字幕の字数制限は、この50年でどんどん字数を減らす方向に変化しました。さらに使える漢字も年々減っています。難しい漢字をつかった、長文の字幕を読める人が減ったのです。そこで直訳系の翻訳者でも、意訳を使うことがあります。
その中でも戸田さんは思い切った意訳をするので、その好みが分かれてしまいます。例えば「バック・トゥー・ザ・フューチャー」の字幕は、意訳がピタリとハマった例で、小気味よい会話のテンポと軽いノリを、日本人にわかりやすく伝えてくれました。この映画のファンの中には、戸田さんの字幕で魅了された人も多いはずです。
一方で、戸田さんのセンスが前面に出るため、好みが合わない人、映画によっては違和感が強くなるものもあるわけです。
なぜ戸田奈津子ばかりが批判されるのか
なにせ翻訳の本数が多いので、どうしても戸田さんの字幕が目につきます。コアなファンから見ると変な翻訳は他にもあるのですが、どうしても本数が多いので目につきやすいのです。また映画関係者の通訳としてテレビに出演することも多いので、間違いが目に付きやすいというのもあります。
また、誤訳を指摘された戸田さんのコメントが、まるで意に介さずなのが怒りを煽ってしまっています。また批判する人は、まるで字幕のことをわかっていないと言わんばかりのコメントも残しています。ご本人からすれば、どうしようもない部分でもあるのでしょうが、もう少し上手い対応ができていれば今ほど批判は強くならなかった気がします。
まとめ
私の想像ですが、戸田さんはウブな女学生がそのままお婆ちゃんになったような方で、流行や下世話なものには疎いように思います。上品な方なので、一般的な観客との意識の違いが作品によって出てきてしまっているのではないでしょうか。
80歳にもなり、片目の視力がほとんど失われているという戸田さんが、年間40本以上の字幕翻訳をしているという現状が異常で、今さら教養を増やしたり専門知識を身につけるのは難しいでしょう。あまりにも戸田さんに仕事が集中しているのが問題だと思います。
戸田さんの師匠、清水俊二氏は映画のディテールを大事にする人で、意訳を嫌う傾向がありました。その清水さんの元で大胆な意訳をするというのは、戸田さんにとって大きな決断だったでしょうし、それが認められたことに大きな自負もあると思います。優れた字幕翻訳者を育て、仕事を分散していくことが急務なのではないでしょうか。
「ロード・オブ・ザ・リング」名作です。
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