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嘘をついて誘致したツケ/東京オリンピックはどうなるのか

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10月16日、IOCのトーマス・バッハ会長が「マラソン、競歩の開催地を札幌に変更した」と、発表しました。「変更したい」ではなく「変更した」と明言しており、これはIOCとしての決定事項でした。そしてIOCは11月1日に札幌での実施を最終決定しています。突然の発表に、多くの人が怒り、IOCの独善的なやり方に不満を持ちました。なぜこんなことになったのでしょうか。 暑さ問題は以前から知られていた まだオリンピックの誘致活動が行われている頃から、国内では東京の暑さは話題になっていました。8月には35度を超える日も多く、熱中症対策として運動を控えるように国が呼びかけている時期に、オリンピックを開催できるのか?という疑問が起こるのは当然です。しかし誘致活動の際に、日本はこの気候問題にも触れています。 「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である。」 次のサイトでもこの文言は確認できます。「 大会の全体的なコンセプト 」 東京五輪誘致委員会の竹田恒和会長は、五輪開催の立候補ファイルに、8月の東京はアスリートにとって理想的な気候と書いているのです。これは誤解とか手違いかいうレベルではなく、誘致委員会の嘘と言って良いのではないでしょうか。東京に住んでいれば、8月の昼間に屋外でスポーツをしたいと思う人は相当な変わり者です。この時期になれば、テレビでは連日のように運動を控えてエアコンの効いた部屋で過ごすようにアナウンスしています。そんな時期をアスリートにとって理想的な気候と言うのは、事実とはかけ離れすぎています。 日本医師会も熱中症を懸念していた 2016年、日本医師会と東京医師会は要望書を提出していました。提出先はオリンピック大会組織委員会、東京都知事、厚生労働大臣、オリンピック担当大臣、文部科学大臣です。この要望書ではオリンピック開催時期は普段から熱中症患者が増える時期で、首都圏は搬送困難になる事例が多い地域だと指摘しています。過去に救急車のたらい回しは、何度も話題になったことがあります。 8月は猛暑が続き、用事がない人は出歩かないようにと言われているのに、オリンピックが行われると出歩く人が増えると考えられます。熱中症が多い時期に搬送困難な場所でオリンピックが...

ワールドカップ ラグビー雑感 /日本が歴史を変えた大会

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2009年にラグビーワールドカップの日本開催が決定した時、なんとも無謀な気がしました。日本のラグビー人気は過去のものとなり、ワールドカップでは連敗を重ね続けていたからです。自国開催で醜態を晒すなら、ラグビー人気はさらに低迷することになるはずです。予選プールて1勝しかしたことのない日本にとって、予選プール突破はおろか1勝が高い壁になっていたのです。 関連記事: ラグビー日本代表の足跡を振り返る /屈辱の日々からの栄光        ラグビー・ワールドカップ展望 /日本はどこまで勝ち上がるのか       人に教える難しさ /ラグビー平尾誠二と大八木淳史 盛り上がらなかったラグビー熱 新国立競技場で開催されるはずだったワールドカップは、競技場の建設によるドタバタで間に合わないことがわかり、東京スタジアムに変更されました。しかし会場は大した問題ではありませんでした。2015年に南アフリカを倒す快挙で一時は盛り上がったラグビー熱は覚め、ラグビーワールドカップを開催する空気は、ほとんど日本にいて感じられませんでした。 テストマッチがたまにテレビ放送されていましたが、話題になることはほとんどありませんでした。ホスト国のラグビー人気は下火もいいところで、知っているラグビー選手を問えば五郎丸歩のように、既に代表メンバーではない人の名前が出てくるのが精一杯でした。海外でどれほど人気があろうとも、日本ではラグビー経験者を除くと、ほんの一握りの人が待ちわびるマイナーな競技の一つに過ぎませんでした。 ボランティアスタッフの変化 あるスポーツ誌の記事を読んで、ハッと思い出しました。2002年のサッカーワールドカップ の時は、ボランティアスタッフの不評があちこちに出ていました。当時はツイッターも4chanもないので、あまり多くの声を拾うことはできませんでした。しかしルール厳守ばかりを主張する日本のボランティアスタッフが、海外かは来場した人達に今ひとつ評判が良くないのは、海外の新聞などから伝わっていました。 「ボランティアスタッフは、フレンドリーというよりも役人のような感じで、そこは立ち入り禁止だとか、ラインを出て撮影しないでとか再三の注意を繰り返していた」と書いていたのは、イギリスのガーディアンだったか、サンだったか。まるで小姑のように注...

浅田真央 /最も印象に残る銀メダリスト

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2014年2月21日、女子フィギュアスケートのフリーは、世界各国の人々が 浅田真央 に複雑な想いを抱いていました。前日に作られたツイッターのハッシュタグ、♯Go Maoと♯MaoFightには、日本語や英語だけでなく、ロシア語、フランス語、アラビア語、スペイン語など、世界各国の言葉で埋め尽くされていました。この日は、もう表彰台に上がる可能性すらない浅田真央が主役でした。 浅田真央の悲劇は優れたオペラのように雄弁で、美しい結末を迎えました。まるでソチ五輪は、浅田真央の美しい悲劇のために用意された舞台装置のようでした。 関連記事: 安藤美姫 /翻弄され嫌われ続けた女王  オリンピックに嫌われ続けた浅田 名コーチと名高い山田満知子の元で急成長し、天才と呼ばれた浅田真央が海外に名を轟かせたのは2004-2005シーズンでした。ジュニアグランプリでの連勝に加え、世界ジュニア選手権で初出場初優勝を遂げると、世界的な注目株になります。さらに翌シーズンはシニアに舞台を移し、いきなりグランプリシリーズ中国杯で2位、グランプリファイナルでは優勝をさらいました。 ※2004年の浅田真央 翌年のトリノオリンピックではメダル間違いなしと言われましたが、年齢規定にわずか87日足らず、出場はできませんでした。4年後のバンクーバーを目指す浅田は、成長に伴い身体のバランスが変わったことで苦戦する場面もありましたが、確実に実力をつけていきます。一方でキム・ヨナという強力なライバルの出現により、世界女王争いは熾烈になっていきました。バンクーバーオリンピックがキム・ヨナとの決着の場になります。 バンクーバーでの激しいメダル争いは、キム・ヨナに軍配が上がりました。難しい技を回避して高得点を積み上げたキム・ヨナと、難易度の高い技に挑戦した浅田は対照的で、男子でも高難度な技に挑戦して銀メダルに終わった皇帝プルシェンコが、公然と「真央こそ金メダルにふさわしい」発言しました。挑戦者が報われないならフィギュアに未来はないと断言したプルシェンコは、その後も浅田を応援し続けることになります。 ※銀メダルに終わった浅田真央 その後は日本を襲った東日本大震災に心を痛め、こんな時期にスケートなんかしてて良いのか?と苦しんだり、コーチ不在の状態に陥ったり、さま...

バスケットボール風雲録 /腐敗した組織の再生

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ある飲み屋で知り合った男性が、酔った勢いで不満を言っていました。「問題は女子なんですよ。協会の理事は男しかおらんでしょ。あいつら男子のことしか考えとらんけど、男子はオリンピックにも出られんのです。でも女子は可能性があるんですよ。協会は女子のことをなんも考えていない」不満というより怒りに近かったと思います。 この時、日本のバスケットボールにはトップリーグが2つ存在し、 国際バスケットボール連盟 (FIBA)から統一するよう是正を命じられていました。日本はオリンピック出場資格を剥奪される瀬戸際でしたが、 日本バスケットボール協会 (JBA)の改革は遅々として進んでいませんでした。数年前まで大学でコーチを務めていたというこの男性は、このままでは日本のバスケットボールが終わると嘆いていました。絶体絶命の危機に陥っても、日本のバスケットボール界には危機感がなかったのです。 日本初のプロバスケットボールチームの誕生 長引く不況により多くの企業が運動部を廃止する中、バスケットボール部の廃部も続いていました。そのためJBAは、以前から要望の多かったプロリーグ創設に向けて動き出します。そんな中、2000年に日本初のプロバスケットボールチーム、 新潟アルビレックスBB が誕生します。華々しく報じられた新潟アルビレックスBBですが、実態は大和証券バスケットボール部の活動が停止になり、行き場を無くした選手達がスポンサーを募って誕生したチームでした。その際にサッカーJリーグの アルビレックス新潟 のスポンサーであるNSGグループが受け皿になり、同じアルビレックスを名乗って共に新潟を盛り上げようとなったのです。 ※発足時のメンバー(新潟アルビレックスBB公式サイトより) 2001年、JBAはプロリーグに向けて足場固めを行い、バスケットボール日本リーグ機構(JBL)を設立しました。さらにこれまでのリーグを廃止してJBLスーパーリーグをJBL主催で開催し、ホームタウン制度を導入します。これでプロリーグ創設に弾みがつくかと思われましたが、遅々としてプロリーグの話は進みませんでした。これはチームのほとんどが大企業のバスケットボール部として運営されていたのに対し、プロリーグにするには会社と切り離してチームを独立した会社にする必要があったからです。 bjリーグの誕生 新潟ア...