ホイットニー・ヒューストン /最高のディーヴァが魅せたアメリカ国歌

ポップミュージックのディーヴァ(歌姫)と言えば、多くのシンガーが思い出されます。マドンナ、レディ・ガガ、古くはアレサ・フランクリン、90年代はマライア・キャリーとセリーヌ・ディオンなど、大ヒットを連発した多くのシンガーがいますが、私はホイットニー・ヒューストンこそ最高のディーヴァだと思っています。それは91年のスーパーボウルでの国歌斉唱があったからです。彼女は輝かしいキャリアを築き、悲劇的な転落と死を迎えましたが、まさに絶頂期に国歌斉唱が行われて伝説になりました。この1曲だけで、ホイットニーが史上最高のディーヴァだと断言できます。



スーパーボウル

スーパーボウルは、常にテレビの年間最高視聴率を誇る人気コンテンツで、91年のスーパーボウルも40%を超える驚異的な番組です。当時の日本では大ヒット番組の視聴率の基準が20%でしたが、アメリカはチャンネル数が多いのでヒット番組でも10%未満になることがほとんどです。それが40%を超えるのですから、どれほどスーパーボウルが注目されているかわかると思います。そのスーパーボウルで国歌斉唱を任されるのは名誉なことで、1億人近い人が見守る中で歌うことになります。



国歌斉唱

当時は湾岸戦争の最中で、愛国的ムードがアメリカを包んでいました。兵士の家族は戦地での様子に気をもみ、アメリカ軍のイラク侵攻を見守っていました。グランドに登場したホイットニーは、スポーツイベントに合わせてジャージ姿でした。まるで近所のスポーツジムにやってきたようなラフさですが、それすらも彼女の愛嬌のように感じてしまいます。大きく手を振って観客に挨拶したホイットニーは、高らかにアメリカ国歌を歌いあげていきました。



ホイットニー・ヒューストンの国歌斉唱はあまりに力強く、繊細で美しい声でした。アメリカ空軍が参列する戦時下を思わせる雰囲気の中、ホイットニーは歌い終わると空軍の戦闘機が上空を抜けていきました。翌日の新聞には、この国歌を聴けただけでチケット代の元をとれたと書いたところもあり、大きな話題になりました。当時、テレビで見ていた私は聴きながら震えました。なぜ他国の国歌に感動するのかわかりませんでしたが、これほど情熱的で素晴らしい国歌を聴いたことがなかったのです。その後の試合内容より、ホイットニーの国歌の方が記憶に残ったほどです。

当時も大きな話題になりましたが、再び話題になるのは2001年の911テロの時でした。YouTubeにアップされていたこの時の動画が話題になり、レコード会社は急遽シングルCDとして販売することを決めます。売り上げは911テロ被害者の救済に充てられることになり、アメリカ以外の国でも発売されています。もはやホイットニーのアメリカ国歌は、アメリカを代表する歌になったのです。

ホイットニー・ヒューストンの略歴

1963年、ホイットニーはニュージャージー州でジョンとシシーのヒューストン夫妻の間に生まれました。母はプロのシンガーで、エルヴィス・プレスリーなどのコーラスを務めたこともありました。親戚にもシンガーが多く、ソウルシンガーのディオンヌ・ワーウィックは従妹にあたります。また洗礼の時の代母はアレサ・フランクリンでした。こうした環境に育ち、ホイットニーが幼少の頃から歌うようになるのは当然のことでした。聖歌隊に入るとゴスペルを学び、母から歌を習いながら育ちます。

※十代のホイットニー


10代の頃からステージに立つようになると、チャカ・カーンのバックコーラスも務めます。そして20歳の時に敏腕プロデューサーのクライブ・デイヴィスに出会います。デイヴィスはホイットニーに可能性を感じ、すぐに契約を進めたのが1983年のことです。そして85年にメジャーデビューを果たします。アルバム「そよ風の贈りもの」をリリースすると、シングルカットされた「そよ風の贈りもの」(You Give Good Love)が好調に売れ、次にシングルカットされた「すべてをあなたに」(Saving All My Love For You)が爆発的ヒットとなり、ビルボード・シングルチャート1位に輝きます。以降、「そよ風の贈りもの」からのシングルカットは全て1位に輝き、ホイットニーは全米を代表する歌手になりました。

※クライブ・デイヴィスとホイットニー


86年のグラミー賞では、最優秀ボーカル女性部門のプレゼンターが従妹のディオンヌ・ワーウィックでした。「自分のことみたいにドキドキする」と言いながら、受賞者名が書かれている封筒を開け、中身を見た瞬間に封筒を投げ捨てながら「ホイットニー・ヒューストン!」と叫んで泣き出す姿が話題になりました。87年のセカンドアルバム「素敵なSomebody」は、初登場でビルボード200の1位に輝き、快進撃を続けていきます。90年のサードアルバムも大ヒットし、グラミー賞を獲得するとスーパーボウルのアメリカ国歌斉唱に選ばれました。

※映画「ボディガード」


92年にはケビン・コスナー主演の映画「ボディガード」に出演し、さらに自身が歌った主題歌「オールウェイズ・ラブ・ユー」(I Will Always Love You)が世界的ヒットとなり、ビルボードシングルチャートでは14週連続1位になりました。この絶頂期にボビー・ブラウンと結婚し、公私ともに順風満帆に見えました。子宝にも恵まれますが、この頃からスキャンダルが増えていき、特に夫ボビー・ブラウンの暴力が報じられるようになります。2000年には大麻所持で逮捕され、この時に麻薬の常用を認めています。2004年にボビー・ブラウンとの離婚が成立し、復帰が報じられましたが何度も延期になっています。

2008年に復帰を果たすとアルバムは大ヒットになり、ワールドツアーも行いました。しかし体調面でのトラブルが続くツアーになり、薬物依存のリハビリを再開することが発表されます。この頃には経済状態が最悪で破産寸前だと報じられるようになり、2012年にホテルの浴槽で倒れているのが発見されました。救急搬送されますが、死亡が確認されました。

何が彼女を破滅させたのか

ホイットニーの破滅は、3つのキーワードで語られます。DV、ドラッグ、同性愛です。ボビー・ブラウンのDVはたびたび報じられ、ブラウンの勧めでドラッグを始めたと言われています。しかしブラウンは暴力を認めたものの、ドラッグに関しては結婚前から常用していたと証言しています。では何が彼女を追い詰めたのでしょうか。

※ボビー・ブラウンとホイットニー


ホイットニーの不幸は、正統派のディーバとして人気を獲得し、そこから脱却できなかったりことです。彼女は健康的で可愛らしいイメージが先行し、模範的な歌手像を求められました。そしてその苦しさを歌に反映することタイプでもありませんでした。マドンナやレディ・ガガのように、歌の中で不満をぶちまけて批判や議論を呼ぶようなことはなかったですし、ましてやインタビューなど言動で不満を述べることすらありませんでした。

実像と大衆の中にある自分とのギャップに苦しむと、高校時代からの親友のロビン・クロフォードにすがるようになります。それが同性愛疑惑になり、ホイットニーを苦しめるようになりました。黒人の同性愛者というのはセールス的にハンディになると思われたのか、何度も何度もホイットニーは同性愛を否定しています。しかし死後にボビー・ブラウンがホイットニーはバイセクシャルだったと語り、近々発売されるロビン・クロフォードの回顧録では2人の性的関係が書かれているようです。

※ロビン・クロフォード(右端)


性的な問題としては、ホイットニーがセックス中毒だったという声もあります。脳内の快感物質が不安を和らげる働きがあり、同時に痺れるような快感を体験すると、もう一度体験したくて繰り返してしまう行動依存に分類される依存症です。ギャンブル依存症と似ていて、大きな不安が引き金になると言われています。若くして巨大すぎる成功が、さまざまなトラブルの原因の一つにあったと思われます。

そして決して彼女は清廉潔白な人物ではなく、成功した若者の多くに見られるように天狗になった部分もあり、調子に乗った面も多々あると思います。しかしそんな彼女を導く人はおらず、代わりにホイットニー以上に情緒不安定になった男が夫だったということが問題を大きくしました。

まとめ

若くして大成功を収めただけでなく、唯一無二の歌声を持っていたホイットニーは、正統派のディーバとして絶大な人気を得ていました。そのプレッシャーによるものなのか、本当の原因は本人にしかわからないのですが、薬物に溺れてしまいました。あの美声が失われたのは本当に残念ですし、80年代の輝きを知る者としては、あまりに寂しい晩年でした。


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