雪の早明戦 /伝説になった大学ラグビー最高の試合
1987年12月6日、東京では戦後初の12月の積雪を観測し、都心は交通が麻痺していました。関東大学ラグビー最終戦の早稲田大学対明治大学の一戦は、開催されるのか朝から心配されました。この日、関東ラグビー協会は総出で国立競技場の雪かきを行い、なんとか試合開催にこぎつけます。
私は、なんとなくテレビでこの試合を見ていました。父親がラグビーをやっていたので、以前から父の隣でラグビーの試合をよく見ていました。だからなんとなくこの日もテレビをつけたのですが、それが歴史に残る一戦になるとは思っていませんでした。
87年は早稲田が全勝で最終戦まで進み、5年ぶりの優勝が目の前でした。明治は三連覇がかかっていて、1敗で早稲田を追いかけていました。どちらも負けられない試合で、買った方が優勝という文字通りの天王山でした。両チームの選手は高揚していましたし、母校の決戦を見届けようと応援団も高揚していました。悪天候により都心のダイヤが乱れていたにもかかわらず、試合開始時には観客席は超満員に膨れ上がり、寒さもあって国立競技場は怒気に近い声援に包まれていきます。
開始早々、明治の主将である大西一平が脳震盪を起こし、一時的に戦線を離れます。以降、大西の記憶は曖昧で、全く記憶にない時間帯があるそうです。一時的に14人になった明治を早稲田が攻め立ててトライを奪い、コンバージョンキックが外れて4-0と早稲田がリードしました(現在は1トライ5点ですが、当時は4点でした)。
早稲田のキッカーは1年生ながらスタメンに名を連ね、キッカーも任された今泉清でした。寒さで足が震えて痙攣を起こしていた今泉のキックの精度は、これまでの精度からは考えられないほど低迷していました。それは明治も同様で、その後両チームともことごとくコンバージョンキックを外すことになります。
この後、早稲田陣内でのスクラムから早稲田がファンブルしたボールを明治の吉田義人がトライを奪いますが、コンバージョンキックが外れて4-4になりました。吉田も1年生ながらレギュラーになったホープで、後に日本代表としてワールドカップを戦うことになります。そしてこの試合には、もう1人の1年生レギュラーがいました。早稲田の堀越正巳で、160cmの小兵ながら後の日本代表を支える選手になります。
前半はそれぞれペナルティゴールを決め、7-7の引き分けで折り返しになりますが、既に多くの選手のユニフォームは泥だらけで、どちらのチームか判別できないほどになっていました。さらに選手の息は上がり、体力的に後半まで持つのか不安もありました。さまざまな悪条件が試合のレベルを引き下げていて、最後は精神力の勝負になり、わずかでも弱気を見せたら一気に試合が決まる緊張感が漂います。
タテへの突破力に勝る明治は、早稲田陣内に攻め込むことが増えていきます。そして後半30分以降は、ほとんどが早稲田陣内て試合が展開されることになります。明治はペナルティを得ると、ペナルティゴールで同点を狙うのではなくスクラムを選択しました。明大主将の大西一平は、その時の心境を
「PGを入れても同点。そんな競技ちゃうで。決着つけなあかん」
と語っています。もちろん寒さでキッカーの精度が低下しているのも要因でしょうが、あくまでも勝って優勝を目指す姿勢に、観客は興奮しました。明治がスクラムを選択するたびに明治の応援団は大歓声を送り、早稲田の応援団も明治の果敢な攻めとそれを凌ぐ早稲田に興奮しました。観客は寒さに凍えながら割れんばかりの歓声を送り続けていき、国立競技場は異様な熱気に包まれていきます。
明治は圧倒的なパワーで、ほぼ早稲田を自陣に釘付けにしました。横への展開に強い早稲田と、縦への突破に強い明治の強みを最大限にぶつける展開になり、試合の行方は全くわからなくなりました。明治は強引にトライを奪おうと試み、早稲田が必死にそれを阻む展開になっていきます。体が動かない、ファンブルしやすい、キックの精度が低い状態で、明治のスクラムを中心にした作戦は有効でした。やがて早稲田の応援団には悲壮感すら漂うような、一方的な展開になっていきます。
明治は何度も突破を試み、ゴール5メートルまで迫ります。モールのまま押し込み、ついには早稲田はバックスまで参加してモールを押し返します。もはや早稲田はポジションに関係なく、全員が明治の選手に食らいつき、猛攻を耐えしのごうとしました。小兵の堀越さえもモールを押し返すのに参加し、文字通りの総力戦になりました。横に繋いだ明治がさらに進み、後3メートルまで迫ります。再び両チームから湯気が立ち上がり、選手同士がぶつかる鈍い音が響く中、互いの精神力の勝負になりました。
後2メートル、1メートル、50センチまで明治は攻め込み、早稲田は全員が身を投げ出して猛攻を止めます。あとほんの少しの距離まで明治は攻めながら、早稲田はなんとか踏みとどまります。明治の猛攻に歓声があがり、早稲田のタックルにどよめく展開が続きました。両チーム泥まみれで、鬼のような形相の30人が入り乱れる戦いは、主審のノーサイドのホイッスルで幕を閉じました。早稲田が勝利を決め、愕然とする明治の選手と歓喜に沸く早稲田の姿がありました。
テレビで見ていても興奮する試合で、この試合を見たから私は今でもラグビーを見ていると思います。国立で見ていた人の話を聞いたことがあるのですが、最後は明治の応援も早稲田の応援も関係なくなり、両者が見せる激しい執念に酔いしれて両チームを称えていたそうです。寒さに凍えながら涙を流して見ていた人も多く、試合終了後には明治の応援団が早稲田に、早稲田の応援団が明治にありがとうと言っていたのが印象的だったそうです。この後、ラグビーは暗黒期に入っていくのですが、その話はまた別の機会にしたいと思います。
私は、なんとなくテレビでこの試合を見ていました。父親がラグビーをやっていたので、以前から父の隣でラグビーの試合をよく見ていました。だからなんとなくこの日もテレビをつけたのですが、それが歴史に残る一戦になるとは思っていませんでした。
関東大学ラグビー対抗戦
関東大学ラグビー対抗戦は1928年から続く伝統があり、68年から総当たり戦で優勝を決めるようになりました。現在ではAグループ、Bグループの二部制ですが、当時は16チームで1グループしかありませんでした。各学校の事情により、試合数にバラツキがあるいびつな方式でしたが、早稲田、明治、慶応などの伝統校の対戦は、毎回盛り上がりを見せていました。これは大学ラグビーの威厳と誇りを賭けた戦いであり、この頃は明治と早稲田は強いライバル心を燃やしていました。熱戦になることは必至のカードだったわけです。87年は早稲田が全勝で最終戦まで進み、5年ぶりの優勝が目の前でした。明治は三連覇がかかっていて、1敗で早稲田を追いかけていました。どちらも負けられない試合で、買った方が優勝という文字通りの天王山でした。両チームの選手は高揚していましたし、母校の決戦を見届けようと応援団も高揚していました。悪天候により都心のダイヤが乱れていたにもかかわらず、試合開始時には観客席は超満員に膨れ上がり、寒さもあって国立競技場は怒気に近い声援に包まれていきます。
試合開始
凍えるような寒さでしたが、予定通り14時に試合が始まりました。雪によってぬかるんだグランドは、スピードを重視する早稲田に不利、パワーを重視する明治に有利との見方もありましたが、そんな単純なものではないことがわかります。寒さは両チームの運動量をそぎ落とし、震える足はキックの精度に影響しました。かじかんだ手は、ボールのキャッチに影響し、ぬかるんだ地面は体力を奪っていきます。こういった悪条件は、従来のラグビーとは全く違った展開を見せることになっていきます。※雪が残る中で試合が始まりました。 |
開始早々、明治の主将である大西一平が脳震盪を起こし、一時的に戦線を離れます。以降、大西の記憶は曖昧で、全く記憶にない時間帯があるそうです。一時的に14人になった明治を早稲田が攻め立ててトライを奪い、コンバージョンキックが外れて4-0と早稲田がリードしました(現在は1トライ5点ですが、当時は4点でした)。
早稲田のキッカーは1年生ながらスタメンに名を連ね、キッカーも任された今泉清でした。寒さで足が震えて痙攣を起こしていた今泉のキックの精度は、これまでの精度からは考えられないほど低迷していました。それは明治も同様で、その後両チームともことごとくコンバージョンキックを外すことになります。
※入る予感すらしないPG |
この後、早稲田陣内でのスクラムから早稲田がファンブルしたボールを明治の吉田義人がトライを奪いますが、コンバージョンキックが外れて4-4になりました。吉田も1年生ながらレギュラーになったホープで、後に日本代表としてワールドカップを戦うことになります。そしてこの試合には、もう1人の1年生レギュラーがいました。早稲田の堀越正巳で、160cmの小兵ながら後の日本代表を支える選手になります。
※ぬかるむ足下 |
前半はそれぞれペナルティゴールを決め、7-7の引き分けで折り返しになりますが、既に多くの選手のユニフォームは泥だらけで、どちらのチームか判別できないほどになっていました。さらに選手の息は上がり、体力的に後半まで持つのか不安もありました。さまざまな悪条件が試合のレベルを引き下げていて、最後は精神力の勝負になり、わずかでも弱気を見せたら一気に試合が決まる緊張感が漂います。
勝ちにこだわった明治
後半開始早々に、早稲田の今泉がペナルティゴールを決めて10-7とリードしますが、その後も水を含んで重く滑るボールに、ぬかるんだ地面が両チームにミスを誘発します。さらに寒さが容赦なく襲い、手がかじかんで落ちたボールを拾い上げるのにも苦労します。試合後、多くの選手がスパイクの紐を解けず、スパイクを履いたままお湯のシャワーを浴び続けました。それほど厳しい寒さが両軍を襲っていたのです。※汚れてどちらかわからないジャージ |
タテへの突破力に勝る明治は、早稲田陣内に攻め込むことが増えていきます。そして後半30分以降は、ほとんどが早稲田陣内て試合が展開されることになります。明治はペナルティを得ると、ペナルティゴールで同点を狙うのではなくスクラムを選択しました。明大主将の大西一平は、その時の心境を
「PGを入れても同点。そんな競技ちゃうで。決着つけなあかん」
と語っています。もちろん寒さでキッカーの精度が低下しているのも要因でしょうが、あくまでも勝って優勝を目指す姿勢に、観客は興奮しました。明治がスクラムを選択するたびに明治の応援団は大歓声を送り、早稲田の応援団も明治の果敢な攻めとそれを凌ぐ早稲田に興奮しました。観客は寒さに凍えながら割れんばかりの歓声を送り続けていき、国立競技場は異様な熱気に包まれていきます。
明治は圧倒的なパワーで、ほぼ早稲田を自陣に釘付けにしました。横への展開に強い早稲田と、縦への突破に強い明治の強みを最大限にぶつける展開になり、試合の行方は全くわからなくなりました。明治は強引にトライを奪おうと試み、早稲田が必死にそれを阻む展開になっていきます。体が動かない、ファンブルしやすい、キックの精度が低い状態で、明治のスクラムを中心にした作戦は有効でした。やがて早稲田の応援団には悲壮感すら漂うような、一方的な展開になっていきます。
伝説になったロスタイム
怪我人が続出し何度も試合が中断したため、ロスタイムは8分も取られました。明治は最後の力を振り絞って怒涛の攻めを展開します。早稲田陣内の深い位置で明治ボールのスクラムになると、明治はボールを出さずにスクラムで押し込もうとします。早稲田も必死に耐え、スクラムからは真っ白な湯気が立ち上りました。吐く息が白いのではなく、スクラムを組んだ選手の背中から湯気が立ち上るのです。選手の熱量が目に見える熱い展開に、観客はさらにヒートアップします。※スクラムから立ち上がる湯気 |
明治は何度も突破を試み、ゴール5メートルまで迫ります。モールのまま押し込み、ついには早稲田はバックスまで参加してモールを押し返します。もはや早稲田はポジションに関係なく、全員が明治の選手に食らいつき、猛攻を耐えしのごうとしました。小兵の堀越さえもモールを押し返すのに参加し、文字通りの総力戦になりました。横に繋いだ明治がさらに進み、後3メートルまで迫ります。再び両チームから湯気が立ち上がり、選手同士がぶつかる鈍い音が響く中、互いの精神力の勝負になりました。
※ゴールラインぎりぎりの攻防 |
後2メートル、1メートル、50センチまで明治は攻め込み、早稲田は全員が身を投げ出して猛攻を止めます。あとほんの少しの距離まで明治は攻めながら、早稲田はなんとか踏みとどまります。明治の猛攻に歓声があがり、早稲田のタックルにどよめく展開が続きました。両チーム泥まみれで、鬼のような形相の30人が入り乱れる戦いは、主審のノーサイドのホイッスルで幕を閉じました。早稲田が勝利を決め、愕然とする明治の選手と歓喜に沸く早稲田の姿がありました。
まとめ
87年は第一回ラグビーワールドカップが開催され、日本は全敗で終わりました。日本のラグビーがワールドクラスには及ばないことが証明されたのですが、学生ラグビーの人気は健在でラグビー熱がさらに高まっていることを感じました。まだ1年生の堀越、今泉、吉田らの活躍は未来に向けて明るい材料でしたし、事実この世代から日本代表(ジャパン)を担う選手が多く輩出されました。テレビで見ていても興奮する試合で、この試合を見たから私は今でもラグビーを見ていると思います。国立で見ていた人の話を聞いたことがあるのですが、最後は明治の応援も早稲田の応援も関係なくなり、両者が見せる激しい執念に酔いしれて両チームを称えていたそうです。寒さに凍えながら涙を流して見ていた人も多く、試合終了後には明治の応援団が早稲田に、早稲田の応援団が明治にありがとうと言っていたのが印象的だったそうです。この後、ラグビーは暗黒期に入っていくのですが、その話はまた別の機会にしたいと思います。
コメント
コメントを投稿