実在のタワーリング・インフェルノの記憶 /大洋デパート火災のトラウマ
1973年11月29日、3歳だった私はテレビに映し出される大洋デパートの映像を見ていました。窓という窓から灰色の煙を吐き出し、巨大な灰色の怪物がビルに巻きついているような恐ろしい映像です。母が不安な顔で何度も「この前行った大洋デパートよ」と言いました。テレビのニュースは、大洋デパートの火災をいつまでも報じていました。
あの時、大洋デパートはまさにタワーリング・インフェルノ(そびえ立つ地獄)でした。炎と煙は大勢を襲い、100人以上の死者と200人以上の負傷者を出したのです。
関連記事
利益追求の悲劇 /ホテル・ニュージャパン火災は人災だった
デパート内の記憶はあまりありません。最上階がレストランで、グラスに乗せられウエハースがついたアイスクリームを食べられるのが、大洋デパートの最大の楽しみでした。パフェなどもありましたが、母は私に「多すぎて食べられないから」と言って、パフェは注文させてくれませんでした。当時のデパートは、子供にとって上に行けば行くほど楽しみが広がる場所でした。下階は洋服が並び、上に行くと家具の階、家電製品の階があり、それを超えるとオモチャの階があります。そして最上階がレストランで屋上は簡易的な遊園地でした。
私は堅苦しい服を着せられるのが嫌でしたが、デパートに行くのは大好きでした。母が「街に行く」と言うたび、ワクワクした記憶川あります。
店員は防火シャッターを稼働させるボタンを押しましたが、シャッター付近には在庫の布団が山積みになっていて、シャッターは完全に降りませんでした。こうして炎は3階に達します。3階の責任者は、この時点で消防に連絡したと証言していますが、消防には連絡が来ていませんでした。3階の寝具売り場に達した炎は、布団に燃え広がると一気に勢いを増しました。
さらに防火シャッターが閉まらなかったため、階段は巨大な煙突と化し、階段で立ち往生している人達を炎と煙が容赦なく襲います。鎮火後に階段には逃げ遅れた多数の死体があったそうです。上階にいた店員は、下から襲ってくる猛烈な熱気に1階に逃げるのは無理だと判断して、屋上に向かいました。60名以上の客を誘導して屋上に向かい、店員や業者など130名が屋上に逃れて救助されました。
この脱出時には、階段は白い煙が充満しかけていたそうで、数分後には黒い煙が充満したそうです。あと数分遅ければ、この130人は犠牲になっていたかもしれません。
火災時には館内放送で避難を呼びかけるようになっていましたが、館内放送を許可する上司が捕まらずに館内放送はありませんでした。そのため店員が大声で避難するように走り回って知らせていました。3階にいた店員は階段が最も危険だと知っていましたが、その情報は全店員に共有されませんでした。電話交換手が逃げていたため、館内の内線電話が通じなくなっていたのです。そのため多くの人が階段に殺到して亡くなりました。
また踊り場は従業員が休憩に利用していたようなので、タバコの火の不始末もありえますが、こちらも明確な証拠が見つかっていません。増築工事の火花が引火した可能性も指摘されていて、原因は不明のままになっています。しかし大洋デパートの火災の最大の問題は、出火原因よりも炎を拡大させた建物運営の不始末や、高層化する建物に追いつかない法律などでした。この後、消防法は大幅に改正され高層建築物の防火体制が見直されることになります。
昭和が終わり平成に変わる頃、テレビでは昭和の事件簿のような番組が多く放送されていました。その時に大洋デパートの映像も放送されました。燃えている大洋デパートの映像は幼い頃の記憶そのままでしたが、鎮火した大洋デパートの映像はハッとするものがありました。私は母に連れられて熊本市内に行った時に、大洋デパートの前を通ったことがあります。窓の周りが黒くすすけていて、中は真っ黒になっていました。吸い込まれるような真っ黒な部屋が外から見え、それが上の階も、また上の階にもつながっていました。
母は、ここで100人以上の人が死んだことを教えてくれました。だから火には気を付けないといけないという話をされた気がしますが、私には真っ黒で巨大な建物が不気味で恐ろしかったのです。夢に見ていた真っ黒の背が高いイメージは、大洋デパートの焼けた跡だったと気が付きました。幼い頃に恐怖を具現化した建物を見て、怖いイメージが頭に定着していたのだと思います。
この時からスプリンクラー設置の厳格化、竪穴区画の徹底、二方向避難の徹底が行われ、現在の消防基準に近い状態になったと言えます。また非常照明や非常侵入口も大洋デパート火災から広まりました。この時、消防の度重なる指導を聞き流し、スプリンクラー設備や防火扉の設置、不燃材料の使用を経費削減を理由に拒否し続けた、ホテル・ニュージャパンは82年に大火災を起こすことになります。
関連記事
利益追求の悲劇 /ホテル・ニュージャパン火災は人災だった
あの時、大洋デパートはまさにタワーリング・インフェルノ(そびえ立つ地獄)でした。炎と煙は大勢を襲い、100人以上の死者と200人以上の負傷者を出したのです。
関連記事
利益追求の悲劇 /ホテル・ニュージャパン火災は人災だった
街のシンボル大洋デパート
当時の熊本市内には、鶴屋デパートと大洋デパートがありました。他には長崎屋などもありましたが、なんと言っても大洋デパートが最大のデパートで、母は特別な時や贈答品を買う時に行っていました。今では信じられないかもしれませんが、当時はデパートに行くために女性はおしゃれをしていました。母は「今日は街に行くから」と、私に一張羅を着せて、母も着飾って大洋デパートに行っていました。当時、熊本市内に行くことを「大洋に行く」と言っていたという証言もあります。そのくらい大洋デパートは、熊本市内のシンボルだったのです。※現在はCOCOSAという商業施設になっています。 |
デパート内の記憶はあまりありません。最上階がレストランで、グラスに乗せられウエハースがついたアイスクリームを食べられるのが、大洋デパートの最大の楽しみでした。パフェなどもありましたが、母は私に「多すぎて食べられないから」と言って、パフェは注文させてくれませんでした。当時のデパートは、子供にとって上に行けば行くほど楽しみが広がる場所でした。下階は洋服が並び、上に行くと家具の階、家電製品の階があり、それを超えるとオモチャの階があります。そして最上階がレストランで屋上は簡易的な遊園地でした。
私は堅苦しい服を着せられるのが嫌でしたが、デパートに行くのは大好きでした。母が「街に行く」と言うたび、ワクワクした記憶川あります。
火災発生
店員が階段から煙が出ているのに気がつき、数人の店員が2階から3階に行く踊り場でダンボールが燃えているのを発見しました。消火用ホースを使って消火をしますが、ホースからはチョロチョロとしか水が出ずに失敗しました。店員たちはバケツリレーで消火を試みますが、火の手は勢いを増すばかりでした。※火災から商品を守ろうとする店員 |
店員は防火シャッターを稼働させるボタンを押しましたが、シャッター付近には在庫の布団が山積みになっていて、シャッターは完全に降りませんでした。こうして炎は3階に達します。3階の責任者は、この時点で消防に連絡したと証言していますが、消防には連絡が来ていませんでした。3階の寝具売り場に達した炎は、布団に燃え広がると一気に勢いを増しました。
やがて事態は最悪に
館内が停電し、窓には商品が山積みになっていたため光が入らず、館内は昼間なのに暗闇になりました。化学繊維が燃えて出る黒い煙が暗闇に充満し、避難中に多くの人が有毒ガスを吸い込んで倒れました。そして多くの店員や客は階段に殺到します。しかし階段は足の踏み場もないほど商品の在庫が置かれ、階段は通行が困難でした。※この階段の写真でも山積みの段ボールが確認できます。 |
さらに防火シャッターが閉まらなかったため、階段は巨大な煙突と化し、階段で立ち往生している人達を炎と煙が容赦なく襲います。鎮火後に階段には逃げ遅れた多数の死体があったそうです。上階にいた店員は、下から襲ってくる猛烈な熱気に1階に逃げるのは無理だと判断して、屋上に向かいました。60名以上の客を誘導して屋上に向かい、店員や業者など130名が屋上に逃れて救助されました。
※屋上で救助を待つ人々 |
この脱出時には、階段は白い煙が充満しかけていたそうで、数分後には黒い煙が充満したそうです。あと数分遅ければ、この130人は犠牲になっていたかもしれません。
遅い消防の到着と避難放送
3階寝具売り場の店員が消防に通報したと証言していますが記録になく、消防が知ったのは近くの商店街の店舗からの通報でした。大洋デパートの窓から煙が出ているのを見て、消防に通報したのです。そのため消防が到着した時には、各階に火の手が周り救助活動が困難になっていました。※13階建てのデパートは煙に飲まれて見えなくなりました。 |
火災時には館内放送で避難を呼びかけるようになっていましたが、館内放送を許可する上司が捕まらずに館内放送はありませんでした。そのため店員が大声で避難するように走り回って知らせていました。3階にいた店員は階段が最も危険だと知っていましたが、その情報は全店員に共有されませんでした。電話交換手が逃げていたため、館内の内線電話が通じなくなっていたのです。そのため多くの人が階段に殺到して亡くなりました。
工事関係者を巻き込む
当時は改修工事をしていたため、足場が設置されていました。それに気づいた人たちは、工事用足場に逃げ込んで難を逃れました。しかし風向きによっては足場を煙が覆い、建設作業員も犠牲になりました。また大洋デパート内にも多くの建築作業員がいました。彼らの多くも犠牲になっています。火災の原因
消防や警察の懸命な捜査にもかかわらず、出火原因は不明のままです。2階から3階に行く階段の踊り場にあったダンボールから出火したのは、多くの証言から間違いありません。火の気のない場所からの出火なので放火の可能性が考えられますが、証拠になるものは見つかっていません。※デパート内に突入する消防隊員 |
また踊り場は従業員が休憩に利用していたようなので、タバコの火の不始末もありえますが、こちらも明確な証拠が見つかっていません。増築工事の火花が引火した可能性も指摘されていて、原因は不明のままになっています。しかし大洋デパートの火災の最大の問題は、出火原因よりも炎を拡大させた建物運営の不始末や、高層化する建物に追いつかない法律などでした。この後、消防法は大幅に改正され高層建築物の防火体制が見直されることになります。
軽いトラウマが残っていた
小学生の頃、私は怖い夢を見ると必ず背が高い黒い男のような怪物のようなものが出てきました。見上げるほど背が高い男は、喋ることもなく私を見下ろしているだけなのに、堪え難い怖さがありました。ホラー映画を見て寝た後などに見る夢に出てくるのですが、そんなホラー映画のキャラを知らないので不思議な気がしていました。それに夢のことなので、深くは考えていませんでした。昭和が終わり平成に変わる頃、テレビでは昭和の事件簿のような番組が多く放送されていました。その時に大洋デパートの映像も放送されました。燃えている大洋デパートの映像は幼い頃の記憶そのままでしたが、鎮火した大洋デパートの映像はハッとするものがありました。私は母に連れられて熊本市内に行った時に、大洋デパートの前を通ったことがあります。窓の周りが黒くすすけていて、中は真っ黒になっていました。吸い込まれるような真っ黒な部屋が外から見え、それが上の階も、また上の階にもつながっていました。
母は、ここで100人以上の人が死んだことを教えてくれました。だから火には気を付けないといけないという話をされた気がしますが、私には真っ黒で巨大な建物が不気味で恐ろしかったのです。夢に見ていた真っ黒の背が高いイメージは、大洋デパートの焼けた跡だったと気が付きました。幼い頃に恐怖を具現化した建物を見て、怖いイメージが頭に定着していたのだと思います。
消防法・建築基準法の大改革
前年に起こった大阪の千日デパート火災と合わせて、建物が古いため現在の基準に合わない仕様になっていました(既存不適格)。そのため消防は特定建築物に消火設備を義務付け、その法律を過去に建設された建物にも適用する「法の遡及」を行いました。ビルのオーナーに金銭的負担を強制することになるこの措置は、反発もあり消防はかなり苦労することになります。しかし後の火災事例を見れば、この効果は絶大だったと思います。この時からスプリンクラー設置の厳格化、竪穴区画の徹底、二方向避難の徹底が行われ、現在の消防基準に近い状態になったと言えます。また非常照明や非常侵入口も大洋デパート火災から広まりました。この時、消防の度重なる指導を聞き流し、スプリンクラー設備や防火扉の設置、不燃材料の使用を経費削減を理由に拒否し続けた、ホテル・ニュージャパンは82年に大火災を起こすことになります。
まとめ
そびえ立つ地獄と化した大洋デパートの火災は、その後の安全基準に大きな影響を与えました。そしてこれらの基準を守らなければ、大きな代償を払うことはホテル・ニュージャパンが証明しています。しかしどんなに設備を整えていても、全ての火災に対応できるわけではありません。京都アニメーションスタジオの放火のように、40リットルものガソリンに火をつけられると消火設備では対応しきれないのが現実です。職場や家庭、そして建物に入る時は脱出経路をチェックするのが重要だと思います。関連記事
利益追求の悲劇 /ホテル・ニュージャパン火災は人災だった
コメント
コメントを投稿