政局がドラマチックだった時代 /55年体制崩壊から連立ちゃんぽん内閣まで

93年、自民党執行部は深夜に会見を開き、党の結束を強調しました。造反には厳しい態度で臨むことを明言し、裏切るなら腹を切る覚悟をしろと言わんばかりの内容です。深夜の会見という異例さに加え、厳しい会見内容から自民党が追い詰められているのは明らかでした。自民党の一党独裁と言われた55年体制が、終焉しようとしていたのです。



小沢一郎の造反

竹下派の大物政治家だった小沢一郎は、佐川急便事件で議員辞職した金丸信(竹下派会長)の後継者として羽田孜を推しました。これは小渕恵三を推す竹下登や梶山静六への反旗でした。この戦いは小渕恵三の勝利に終わり、小沢一郎は竹下派を脱退して羽田派を立ち上げます。当然ながら竹下登の怒りは凄まじく、羽田派は冷遇されることになりました。

※小沢一郎(左) 羽田孜(右)

そんな中、野党が宮沢内閣に内閣不信任案を提出する可能性が高まり、その場合には羽田派が賛成票を入れるという噂が広まりました。野党と羽田派議員を合計すると内閣不信任が議決されるため、自民党はなんとかして羽田派の切り崩しを始めます。そこで冒頭の深夜の記者会見が開かれたのです。

※タレントDAIGOのお爺ちゃん、竹下登

竹下派は羽田派議員の一本釣りを画策し、一晩のうちに何人もの議員が竹下派に寝返りますが、リクルート疑惑や佐川急便事件で揺れる自民党に限界を感じた議員らが羽田派に寝返り、余談を許さない状況が続きました。この頃は、朝刊を見るたびに勢力図が変わっていて、どうなるか全くわからない空気が漂っていました。

55年体制の終焉

野党から内閣不信任案が提出されると、羽田派の造反が起こり、宮沢内閣は解散しました。これにより武村正義が離党して「新党さきがけ」を結成し、さらに羽田派も離脱して「新生党」を立ち上げました。衆議院選挙は激しい戦いが展開され、新党さきがけ、新生党、そして細川護熙を党首とする日本新党が大躍進し、自民党は過半数を割ってしまいました。

※左から羽田孜(新生党)、細川護煕(日本新党)、武村正義(新党さきがけ)

小沢一郎は自民党との連立政権を画策していた細川護熙と面会し、総理の椅子を約束することで新生党との連立にこぎつけます。新党さきがけも合流し、この3党での連立政権が誕生しました。1955年から続いた自民党による政権運営、いわゆる55年体制はこの時に終焉しました。

短命に終わった細川内閣

野党に転落した自民党は国会で徹底抗戦し、政権運営能力に欠ける細川護熙は右往左往することになります。小沢は内閣とは別の意思決定機関「連立与党代表者会議」を開き、裏側から政権をコントロールしようとします。これに武村正義が反発し、細川政権は細川護熙が党首の日本新党を抜きに、新生党と新党さきがけがケンカをしながら意思決定していくことになりました。

そこに細川護熙が、佐川急便から政治献金を受けた疑惑が上ります。細川は一時的に借りただけで返済済みと説明しますが、返済を証明できずに苦戦します。自民党は国会審議を拒否して国会の空転が始まりました。そんな中、細川護熙は電撃的に総理を辞任します。

総理辞任の理由

国会が空転しているとはいえ、まだまだ高い支持率を保っていた細川護熙が辞任したのは衝撃的でした。最大の理由は佐川急便からの献金問題で、追求を逃れるためだと言われています。また、新生党と新党さきがけが意思決定をする中、日本新党の意向が無視される状況に嫌気がさしたとも言われました。

しかし一部では、辞任発表の少し前に小沢一郎が自民党の渡辺美智雄と密会したという情報が、細川の耳に入ったのが原因という声もありました。小沢は渡辺の新生党入りを画策し、総理の椅子を約束したそうです。小沢は新党さきがけと日本新党の切り捨てを図ろうとしているため、細川が先手を打って辞任したというものです。

※ミッチーと呼ばれていた渡辺美智雄

これには諸説あって、小沢と渡辺の接触は細川の辞任発表後という意見もあり、本当のところはよくわかりません。細川内閣の支持率はまだまだ高かったので、辞任は唐突な印象があり多くの憶測を呼びました。

社会党との連携

細川総理の辞任後は、新生党の羽田孜が総理に就任しました。連立与党は案定数を確保するため社会党との連立をさぐりますが、この会談は決裂に終わりました。今度は自民党が社会党との連立を模索し、1994年に自民党が首相指名選挙で社会党当主の村山富市に投票すると発表しました。長年の敵であった社会党と手を組む自民党にも社会党にも有権者から批判が集まり、もはや政権を奪取できるなら誰と組んでもOKという節操のない政局になってきました。

※村山富市

以前から小沢一郎に離党を促されていた、元総理大臣の海部俊樹は自民党が村山富市を指名すると聞いて離脱を表明します。首相指名選挙は自民党が担ぎ出した社会党の村山富市と、連立与党が担ぎ出した海部俊樹の一騎打ちとなり、村山が勝利して社会党から総理大臣が誕生しました。自民党は長年対立してきた社会党、自民党に反旗を翻して出て行った新党さきがけと組んで連立政権を立ち上げ、ちゃんぽんのようなごちゃごちゃのメンツで政権を担当することになりました。

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村山内閣の終焉

村山内閣は運が悪かったと言われています。任期中に阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件が起こりました。その対応を巡り村山政権には批判が殺到して、急激に支持率を落とすことになりました。しかし運が悪かっただけではありません。

長年、社会党は自衛隊を違憲としてきましたが、村山総理は合憲と明言して支持者を失望させました。また不用意な発言が多く、阪神淡路大震災を朝のNHKニュースで知ったと言うなど、危機管理体制だけでなく意識を疑われるような言葉を発しました。子供に「どうしたら総理大臣になれますか?」と質問され、なりたくてなったわけではないと答え、総理の器ではないと言われました。


函館ハイジャック事件が無事に解決した際にはVサインを報道陣に送って自慢げでしたが、ドライバー1本で立てこもった犯人相手に長時間を要したことから、総理の感覚を疑う声が出ました。

村山総理は、辞意表明を突然出して、多くの批判を集めました。まるで嫌になったから辞めるかのような態度にメディアは厳しい論調で批判し、自民・さきがけ・社会の連立与党は自民党の橋本龍太郎を首班指名して橋本内閣が誕生しました。

まとめ

1993年から96年にかけて、政局は揺れに揺れました。55年体制の与党=自民党のイメージから大きく外れ、どこが政権を担当するのか、誰がどの党に行くのかわからない劇的なドラマが多く生まれました。政策よりも政局が報じられ、まるでゲームを見ているかのような感覚で政治が展開し、お祭りのような雰囲気さえありました。

55年体制の崩壊により日本が変わるのではないかという予感に興奮がありましたが、結局は自民党の橋本政権に集約され、55年体制と何ら変わらない状態に戻ったため、政治に対する諦めのような空気が残りました。これは21世紀に入っても民主党政権で繰り返されるのですから、歴史は繰り返すのだと実感しました。



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