揉める普天間基地 /反対派と賛成派と混ぜ返す人
最近になって芸能人の参戦もあり、普天間基地の問題がさらに揉めています。反対派と賛成派の主張が入り乱れ、さらにわざわざ問題をややこしくする人もいるので、こじれにこじれてしまいました。実にわかりにくい普天間基地移設問題を、私なりに解説したいと思います。
これには沖縄県だけでなく日本全国で怒りの声が上がり、犯人の引き渡しだけでなくアメリカ軍の沖縄からの撤退を求める声が上がります。司令官の「レンタカー代で女が買えた」という不適切発言も手伝って、沖縄では激しいデモが起こりました。これをきっかけに、普天間基地の移設問題が日米両政府の間で持ち上がります。
一方で、米軍も住宅街のど真ん中で離着陸するのは恐ろしいのです。飛行機がオーバーランしたり、離着陸時にトラブルがあれば住宅に突っ込むのですから普通の空港より神経を使います。周囲に何もなければ不時着も可能ですが、鉄筋コンクリートの学校に飛行機が突っ込めばパイロットだって命の保証はありません。特に夜間のスクランブルなどは神経を使うそうで、近隣住民同様に米軍も移転を望んでいます。
代替施設をめぐっては、既設の施設の利用と新設の双方から議論し、県外も検討されました。しかしどの案にも問題が多く、アメリカの要望を満たさないだけでなく日本の事情にも添いませんでした。計画が暗礁に乗り上げた時に浮上したのが海上ヘリポート案でした。橋本総理が自ら表明し、この案が動き始めました。
97年12月に名護市の住民投票は行われ、反対派が約3%上回りました。比嘉は「そんなに負けてはいない」と思ったそうです。もともと比嘉は住民投票の結果がどちらに出ても基地建設に向けて動くつもりで、太田沖縄県知事に会って泥は全てかぶるから基地建設を黙認して欲しいと訴えるつもりでした。しかし太田知事は理由をつけて面会を拒否し、比嘉は名護市長辞職を決めました。
比嘉は名護市だけでなく、沖縄本島北部と離島の振興策を橋本総理に託し、総理は涙を流して「わかった」と答えたそうです。
これで反対派に押され気味だった賛成派が盛り返しました。賛成派の多くは基地建設事業の経済効果と、政府が約束した地域振興策が沖縄経済に役立つと考えています。太田知事の反対によって凍結状態にあった地域振興は、この選挙によって動き始めました。稲嶺知事は基地の受入容認を宣言します。
日本政府と米政府の間で基地建設を決定し、沖縄県知事も建設を容認したわけで、アメリカにとって今さら決定を覆す理由は無いのです。当初は5年から7年と言っていた期間も遅れに遅れていて、振り出しに戻すなどありえないからです。
民主党内部では公約でもある「最低でも県外」を死守したい議員と、現実路線を目指したい議員により、民主党政権は迷走を始めます。一方で県外移設を諦めつつある民主党に対し、連立与党の社民党と国民新党は県内移設に否定的で連立離脱さえ匂わせるようになると、鳩山政権はさらに迷走を重ねていきました。
沖縄では県内移設反対集会が開かれました。選挙前には県内移設を認めないと言いながら、マニュフェストに書かなかったので公約違反でないという民主党の態度は、当然ながら大きく批判されることになります。
アメリカの失望は深く、日本政府に強烈な不信感を持つことになります。これ以降、アメリカは日米首脳会談を拒否するようになりました。急速に悪化する日米関係に危機を覚えた岡田外務大臣が年内の解決を示すと、鳩山総理は強い不快感を示して民主党の迷走が一気に表面化しました。
国同士の約束であっても変えることはできます。変えるには双方の同意が必要で、その交渉のテーブルに相手をつかせるためには相手が納得する条件を提示しなければなりません。しかし民主党は自らの都合で一方的に県外移設を言い出しているに過ぎず、約束を守ってくれと言っているに過ぎないアメリカは裏切られた気分だったでしょう。
鳩山総理は来年の5月末までに結論を出すと国内向けに説明しましたが、アメリカからすれば日米合意を履行するという結論が変わるなどありえませんでした。
さらに国会で自民党から追及を受け、遅くとも5月までには結論を出すように迫られると「腹案がある」と発言します。この後、この腹案を巡って情報が錯綜し、民主党議員が勝手バラバラに腹案の内容を話すので混乱がピークに達しました。そして5月に鳩山総理は沖縄へ出向き、仲井真知事に県外移設の断念を伝えました。反対派の怒りは凄まじく、地元住民との対話集会では厳しい批判が巻き起こりました。
断念した理由を問われた鳩山総理は、沖縄の基地負担軽減についてオバマ大統領がどこまで理解しているか判断がつかないと、まるで遅れている責任はアメリカにあるような発言をして、アメリカの怒りを誘いました。
その直後に行われた日米実務者協議では、日本が杭打ち桟橋方式を提案しますが、アメリカはそれに難色を示した挙句、地元の合意を取り付けて来いと厳しい要求を突きつけました。
後任の菅直人総理は、「辺野古移設はなんとしても実現」「沖縄の軽減負担に尽力する覚悟」と決意を表明しますが、沖縄への訪問に関しては前任者(鳩山氏)がすでに済ませていると、沖縄訪問を否定しました。
名護市への移設は橋本政権時代に、橋本総理だけでなく与党幹部が何度も足繁く通って理解を求めて実現しました。それをひっくり返しておきながら、あまりにも淡白な民主党の対応に、名護市や沖縄は裏切られた気分だったでしょう。
その一方で安倍総理は仲井真沖縄県知事と会談し、基地負担軽減策を示しました。仲井真は「驚くほど立派な内容」と評価して、辺野古の埋め立てを承認しました。安倍総理はオバマ大統領との会談で辺野古移設の推進を約束し、これで一旦は落ち着いたかに見えました。
国と沖縄県は裁判で争うことになり、埋め立ては継続されています。そのため現場では反対派と業者の間で小競り合いが頻発していて、緊張が続いています。
無条件にアメリカ軍基地を日本から撤退させるべきだという意見もありますが、それは日米安全保障条約や日米地位協定を見直すということであり、ここに書いた基地移転問題とは次元が異なる大きな問題です。これを基地移転と一緒に語ると話が複雑になりすぎるでしょう。
こうして振り返ると、さまざまな人が出てきて反対や賛成を訴えるのは良いことだと思いますが、民主党が巻き起こした混乱があまりにも大きく今でも爪痕になって残っているように感じます。
※普天間基地 |
発端は1995年の事件
住宅街音真ん中にある普天間基地の返還は、以前から声を上げる人がいました。しかし返還の機運が一気に高まったのは、米兵による暴行事件がきっかけです。95年9月、米海兵隊の2名と米海軍の1名、計3名が商店街で買い物をしていた12歳の少女を拉致し、強姦する事件が発生しました。沖縄県警はあらゆる証拠から米兵の関与は明白だとして逮捕状を請求しますが、日米地位協定によって犯人の身柄が引き渡されない可能性が出てきました。※米兵の蛮行を批判する集会 |
これには沖縄県だけでなく日本全国で怒りの声が上がり、犯人の引き渡しだけでなくアメリカ軍の沖縄からの撤退を求める声が上がります。司令官の「レンタカー代で女が買えた」という不適切発言も手伝って、沖縄では激しいデモが起こりました。これをきっかけに、普天間基地の移設問題が日米両政府の間で持ち上がります。
近隣住民も米軍も嫌がる普天間基地
不動産業者に聞くと、普天間基地の周辺は人気エリアだそうです。学校にも買い物にも近いので便利が良いそうですが、戦闘機の離着陸の騒音はすさまじく、住民の悩みになっているようです。米軍機の事故が起こるたびに住民は冷や冷やするそうで、住宅をかすめて戦闘機が通るのは心理的にも怖いと思います。一方で、米軍も住宅街のど真ん中で離着陸するのは恐ろしいのです。飛行機がオーバーランしたり、離着陸時にトラブルがあれば住宅に突っ込むのですから普通の空港より神経を使います。周囲に何もなければ不時着も可能ですが、鉄筋コンクリートの学校に飛行機が突っ込めばパイロットだって命の保証はありません。特に夜間のスクランブルなどは神経を使うそうで、近隣住民同様に米軍も移転を望んでいます。
橋本内閣の奮闘
1996年に橋本龍太郎が内閣総理大臣に就任すると、橋本の強い意向で日米首脳会談のテーブルに普天間基地問題をのせました。橋本総理は公使に渡って十分な勉強をしてきたようで、並々ならぬ意気込みを見せて周囲を驚かせたそうです。橋本総理は駐日アメリカ大使との会談で、普天間基地の条件付返還を結び、十分な代替施設を用意することで5年から7年で普天間基地の返還を決定しました。※橋本龍太郎総理大臣 |
代替施設をめぐっては、既設の施設の利用と新設の双方から議論し、県外も検討されました。しかしどの案にも問題が多く、アメリカの要望を満たさないだけでなく日本の事情にも添いませんでした。計画が暗礁に乗り上げた時に浮上したのが海上ヘリポート案でした。橋本総理が自ら表明し、この案が動き始めました。
名護市の住民投票
名護市の市長である比嘉鉄也は、辺野古移設に反対をしていましたが、橋本総理をはじめとする与党議員の説明や提案を聞くにつれて、名護市の振興策を条件に建設を認めるようになりました。市長の変容に焦る反対派は、住民投票を呼びかけ、市議会で住民投票の実施が決定しました。97年12月に名護市の住民投票は行われ、反対派が約3%上回りました。比嘉は「そんなに負けてはいない」と思ったそうです。もともと比嘉は住民投票の結果がどちらに出ても基地建設に向けて動くつもりで、太田沖縄県知事に会って泥は全てかぶるから基地建設を黙認して欲しいと訴えるつもりでした。しかし太田知事は理由をつけて面会を拒否し、比嘉は名護市長辞職を決めました。
比嘉は名護市だけでなく、沖縄本島北部と離島の振興策を橋本総理に託し、総理は涙を流して「わかった」と答えたそうです。
98年の沖縄知事選挙
基地建設に反対だった太田知事は、沖縄の経済界に不人気でした。沖縄の経済を活性化させる大事業として、基地建設を推進する人達は基地建設賛成派を次の知事に臨みます。自民党は基地建設賛成派の稲嶺恵一を擁立し、稲嶺は経済界からの支持を受け、98年の沖縄知事選挙で当選しました。これで反対派に押され気味だった賛成派が盛り返しました。賛成派の多くは基地建設事業の経済効果と、政府が約束した地域振興策が沖縄経済に役立つと考えています。太田知事の反対によって凍結状態にあった地域振興は、この選挙によって動き始めました。稲嶺知事は基地の受入容認を宣言します。
民主党政権の誕生
2009年に衆議院選挙で、基地移設は「最低でも県外」と表明した民主党を中心に社民党や国民新党の野党連合が与党になり、鳩山内閣が誕生しました。しかし新内閣が発足してからわずか2か月後には、アメリカとの協議を重ねる中で県外移設はほぼ不可能だという声が出るようになります。※鳩山由紀夫総理大臣 |
日本政府と米政府の間で基地建設を決定し、沖縄県知事も建設を容認したわけで、アメリカにとって今さら決定を覆す理由は無いのです。当初は5年から7年と言っていた期間も遅れに遅れていて、振り出しに戻すなどありえないからです。
民主党内部では公約でもある「最低でも県外」を死守したい議員と、現実路線を目指したい議員により、民主党政権は迷走を始めます。一方で県外移設を諦めつつある民主党に対し、連立与党の社民党と国民新党は県内移設に否定的で連立離脱さえ匂わせるようになると、鳩山政権はさらに迷走を重ねていきました。
選挙公約ではなかった「最低でも県外」
民主党が衆院選前に発表したマニュフェストには、普天間基地の問題は触れられていませんでした。また社民党、国民新党との3党合意の中でも触れられていません。国会で民主党は「公約違反だ」と責められると、この点を強調しました。沖縄の反対派には、大きな失望が広がります。沖縄では県内移設反対集会が開かれました。選挙前には県内移設を認めないと言いながら、マニュフェストに書かなかったので公約違反でないという民主党の態度は、当然ながら大きく批判されることになります。
アメリカの不信感
2009年11月、普天間基地移設が遅れていることをオバマ大統領に指摘された鳩山総理は「トラスト・ミー(私を信じて)」と言い、問題解決のための閣僚級のワーキンググループの設置を提案します。記者会見でワーキンググループの目的を質問されたオバマ大統領は「日米合意を履行するためのもの」と答えます。これを聞いた鳩山総理は「日米合意が前提ならワーキンググループは必要ない」と怒りを露わにしました。アメリカの失望は深く、日本政府に強烈な不信感を持つことになります。これ以降、アメリカは日米首脳会談を拒否するようになりました。急速に悪化する日米関係に危機を覚えた岡田外務大臣が年内の解決を示すと、鳩山総理は強い不快感を示して民主党の迷走が一気に表面化しました。
国同士の約束であっても変えることはできます。変えるには双方の同意が必要で、その交渉のテーブルに相手をつかせるためには相手が納得する条件を提示しなければなりません。しかし民主党は自らの都合で一方的に県外移設を言い出しているに過ぎず、約束を守ってくれと言っているに過ぎないアメリカは裏切られた気分だったでしょう。
鳩山総理は来年の5月末までに結論を出すと国内向けに説明しましたが、アメリカからすれば日米合意を履行するという結論が変わるなどありえませんでした。
さらに迷走する鳩山内閣
2010年1月の名護市長選挙で、辺野古移設反対派が市長に当選すると、反対派はさらに勢いづきました。民主党内でも意見が割れ、事態の収拾を迫られた鳩山総理は3月5日までに結論を出すと明言しますがまとまらず、3月18日までに結論出すと発言し、18日を過ぎると3月末までにと言い、4月には「いつまでに決めるという話ではない」と、自身の発言を否定して混乱に拍車をかけました。さらに国会で自民党から追及を受け、遅くとも5月までには結論を出すように迫られると「腹案がある」と発言します。この後、この腹案を巡って情報が錯綜し、民主党議員が勝手バラバラに腹案の内容を話すので混乱がピークに達しました。そして5月に鳩山総理は沖縄へ出向き、仲井真知事に県外移設の断念を伝えました。反対派の怒りは凄まじく、地元住民との対話集会では厳しい批判が巻き起こりました。
断念した理由を問われた鳩山総理は、沖縄の基地負担軽減についてオバマ大統領がどこまで理解しているか判断がつかないと、まるで遅れている責任はアメリカにあるような発言をして、アメリカの怒りを誘いました。
その直後に行われた日米実務者協議では、日本が杭打ち桟橋方式を提案しますが、アメリカはそれに難色を示した挙句、地元の合意を取り付けて来いと厳しい要求を突きつけました。
鳩山政権の終焉
5月末に日米両政府は辺野古移設に関する共同声明を出し、それに反発して社民党は連立与党を離脱しました。一連の責任を取り、鳩山総理は辞任を決めます。わずか9ヶ月あまりで、鳩山政権は終焉を迎えました。後任の菅直人総理は、「辺野古移設はなんとしても実現」「沖縄の軽減負担に尽力する覚悟」と決意を表明しますが、沖縄への訪問に関しては前任者(鳩山氏)がすでに済ませていると、沖縄訪問を否定しました。
※菅直人総理大臣 |
名護市への移設は橋本政権時代に、橋本総理だけでなく与党幹部が何度も足繁く通って理解を求めて実現しました。それをひっくり返しておきながら、あまりにも淡白な民主党の対応に、名護市や沖縄は裏切られた気分だったでしょう。
安倍政権の対応
2012年に安倍政権が誕生し、2013年の参院選で大勝すると、自民党内の県外移設派に対して党幹部から県内移設に賛同するように要請が始まりました。拒否すると離党勧告を出す強行さを見せ、党内の反対派を一掃していきました。その一方で安倍総理は仲井真沖縄県知事と会談し、基地負担軽減策を示しました。仲井真は「驚くほど立派な内容」と評価して、辺野古の埋め立てを承認しました。安倍総理はオバマ大統領との会談で辺野古移設の推進を約束し、これで一旦は落ち着いたかに見えました。
翁長知事の誕生
2014年の沖縄知事選挙で移設反対派の翁長雄志が当選すると、仲井真知事の辺野古埋立の承認を検証する第三者委員会を設置します。第三者委員会は承認の経緯に瑕疵があるため、承認の取り消しが可能と報告し、翁長知事は正式に辺野古埋立の承認取り消しを発表しました。国と沖縄県は裁判で争うことになり、埋め立ては継続されています。そのため現場では反対派と業者の間で小競り合いが頻発していて、緊張が続いています。
まとめ
これまでの経緯を一気に書いてみましたが、いかがでしょうか。普天間基地は周辺住民も使用している米軍も移転を望んでいて、問題はその移転先です。沖縄にも県外に移設することを望む人と県内移設を望む人がいますし、利用する米軍にとってはアメリカの戦略に則った場所でなければ移転はできません。無条件にアメリカ軍基地を日本から撤退させるべきだという意見もありますが、それは日米安全保障条約や日米地位協定を見直すということであり、ここに書いた基地移転問題とは次元が異なる大きな問題です。これを基地移転と一緒に語ると話が複雑になりすぎるでしょう。
こうして振り返ると、さまざまな人が出てきて反対や賛成を訴えるのは良いことだと思いますが、民主党が巻き起こした混乱があまりにも大きく今でも爪痕になって残っているように感じます。
コメント
コメントを投稿