80年代洋楽遍歴 /MTV時代を振り返る

80年代は洋楽の時代でした。81年にアメリカでMTVが始まり、音楽と映像の融合が行われるようになると、日本人にもわかりやすいキャッチーな曲が量産され、ビルボードヒットチャートは、良い曲を作る以上に良いPV(プロモーションビデオ)を作れるかで上位が決まるようになります。



それはテレビから始まった

81年に放送が開始したベスト・ヒットUSA(当初はプリヂストン・サウンド・ハイウェイ)は、小林克也をMCにし、土曜の深夜に洋楽のPVをひたすら流すだけの番組でしたが、欧米のミュージシャンの動く姿希少で、音楽好きの間で話題になります。



さらに私が住んでいた福岡では、84年からNight Jack 福岡(ナイトジャック福岡)が放送を開始し、こちらも洋楽PVを垂れ流す番組でしたが、高い人気を誇りました。当時はノエビア化粧品がCMで洋楽を多用していた時代で、洋楽を聴くことが時代の先端でもありました。

その頃、邦楽も盛り上がっていて、ザ・ベストテン(TBS系)やザ・トップテン(日テレ系)、歌のトップテン(日テレ系)など歌番組が人気でしたが、アイドル全盛期でもあり、大半がアイドルソングに時々演歌が混じる構成で、それらに飽き足らない人達が洋楽に流れていきました。

最初の衝撃 スティックス

中学校1年製の頃にFM長崎で流れた「キルロイ・ワズ・ヒア」というスティックスというバンドのアルバムを特殊した放送が、ちょっとした衝撃でした。いわゆるロックオペラで、ロックンロール禁止令が出された近未来の物語を、アルバム全体でストーリーを追って表現した世界に「こんな音楽があるんだ」と、強い興味を覚えました。

※スティックス

特にシングルカットされた「ミスター・ロボット」は、日本語から始まる歌詞が新鮮でした。

Domo arigato Mr.Robot.
Mata au hi made.

この「どうもありがとうミスター・ロボット」という歌詞は、多くの日本人には聞き取ることができず、「玉割カット、ミスター・ロボット」「竹割マッチョ、ミスター・ロボット」などの空耳を生んだのですが、英語の歌詞に日本語が入るという衝撃があり、本格的に洋楽を聴くきっかけになりました。

※ミスター・ロボット

マイケル・ジャクソン「スリラー」(82年)

好きか嫌いか興味がないかなどを差し置いて、この曲とPVは決定的な影響を音楽の世界に与えました。映画のように物語を組み込んだPVの衝撃は、その後は「スリラー」を超えることに注力する流れが生まれます。

※スリラー


この年はTOTOがアルバム「IV〜聖なる剣」をリリースし、シングルカットされた「アフリカ」「ロザーナ」が大ヒットしました。スタジオミュージシャンによって結成されたTOTOは、80年代のヒット曲のほとんどに参加することになり良くも悪くも80年代のヒット曲はTOTOっぽさがあります。

※アフリカ

83年からの展開

カルチャークラブは「カーマは気まぐれ」で大ヒットを飛ばし、上記のミスター・ロボットがあり、マイケル・ジャクソンは「ビリー・ジーン」「ビート・イット」とヒットを連発します。

※カーマは気まぐれ

映画「フラッシュダンス」のヒットにより、テーマソングの「ホワット・ア・フィーリング」が大ヒットになり、さらにマイケル・センベロが歌った挿入歌の「マニアック」が大ヒットします。この曲は元々ホラー映画のために書かれた曲でしたが、プロデューサーの耳にとまって、狂ったようにダンスをする女性の歌に書き換えられてヒットしました。

※マニアック

83年は怒濤の勢いで様々な曲がリリースされ、MTV時代が本格的に幕開けした年だと思います。

84年のヒット曲ラッシュ

84年はヒット曲が多すぎて、どれを取り上げていいのか悩みます。プリンスの自伝的映画「パープルレイン」が公開され、シングルカットされた曲がNo1ヒットを連発し、映画「フットルース」の主題歌で、ケニー・ロギンスが歌った「フットルース」が大ヒットします。この年は映画「ゴーストバスターズ」の主題歌も大ヒットし、映画「ウーマン・イン・レッド」の主題歌「アイ・ジャスト・コール・トゥ・セイ・アイ・ラブ・ユー」をスティービー・ワンダーがヒットさせるなど、映画とのコラボレーションでのヒットが目立つようになります。



ハードロック界にはヴァンヘイレンが登場し、「ジャンプ」が記録的ヒットとなりました。エドワード・ヴァンヘイレンがギターソロの後にはにかんで笑う姿はギターキッズに大きな影響を及ぼし、明るくハードロックを演奏するバンドが出てくるようになります。

85年のピーク

この年もヒット曲が多すぎて、何を書くか悩みます。スウェーデンの3人組a-haの「テイク・オン・ミー」は、漫画と動画の融合が芸術的で、PVの完成度の高さに誰もが驚かされました。a-haはファーストアルバムから「ハンティング・ハイ・アンド・ロー」「ザ・サン・オールウェイズ・シャイン・オン・TV」などヒットを連発しますが、ファーストアルバムの完成度が高すぎたため、以降の期待に苦労することになります。

※テイク・オン・ミー

ワムが「ケアレス・ウィスパー」などのヒットを飛ばし、マドンナが「ライク・ア・バージン」、そしてジェファーソン・エアプレインから紆余曲折を経て生まれたスターシップがアルバム「ニー・ディープ・イン・ザ・フープラ」をヒットさせます。シングル曲「シスコはロックシティ」「セーラ」がNo1ヒットになりました。

この年はオーストリアのシンガー、ファルコが「ロック・ミー・アマデウス」をヒットさせました。モーツァルトを歌ったドイツ語のラップで、英語と混合した歌詞でアメリカでもリリースされると大ヒットしました。84年にはドイツ出身のヒューバート・カーの「エンジェル07」が日本などではヒットしましたが、ファルコはアメリカでも大人気で、スタイリッシュでユーモアに溢れたラップが言葉の壁を越えた珍しい現象でした。

※ロック・ミー・アマデウス

そしてこの年はアメリカのミュージシャンによってUSAフォー・アフリカが結成され、「ウィー・アー・ザ・ワールド」がヒットしました。それに伴い、イギリスとアメリカを衛星で繋いで行われたチャリティライブ、ライブエイドも行われました。洋楽のヒットが頂点に達したのが85年だったと思います。

86年の新星

この年はホイットニ・ヒューストンがアルバム「そよ風の贈り物」でデビューし、「すべてをあなたに」(Saving All My Love for You)、「恋は手さぐり」(How Will I Know)がヒットしてアメリカを代表する女性シンガーになりました。ホイットニーはこの年以降、アメリカを代表する歌手になります。

※すべてをあなたに

1972年から活動を続けつつもヒット曲に恵まれなかったハートが、外部ソングライターを招いて起死回生を狙ったアルバム「ハート」が発売され、シングルカットされた「ネバー」「ジーズ・ドリームス」がヒットし、ようやくメジャーシーンに躍り出ました。アンとナンシーのウィルソン姉妹を中心にしたこのバンドは、この年のヒットをきっかけにロックの殿堂入りを果たすまでになります。

※ネバー

この年に公開された映画「トップガン」は、PVをつなぎ合わせたような映画と揶揄されるほど音楽を前面に押し出し、ケニー・ロギンスが歌った主題歌「デンジャー・ゾーン」が大ヒットした他、挿入歌も軒並みヒットしました。ケニー・ロギンスにとっては映画「フットルース」の主題歌以来のヒットになりました。

まとめ

80年代はもう少し続きますが、私が熱心に聴いていたのは87年に差し掛かる頃までです。音楽より映像に重きを置いた曲が増えすぎて、やや食傷気味になった記憶があります。そして邦楽がアイドル全盛期からバンドサウンドに変わっていく時代でもあり、邦楽が面白くなったのもあります。さらに私はこの頃から70年代以前の音楽も聴くようになり、50年代のオールディーズから70年代のフレンチポップまでを最も聴いていたと思います。

80年代は音楽が溢れ、映像と音楽の融合が盛んに行われました。それが上手くいかなかった例も多くありますし、芸術的なレベルまで高まった作品も多々あります。そして映像を重視した時代でありながら、歌唱力を武器にしたホイットニーが席巻するなど、アメリカのエンタメ界の懐の深さを感じた時代でもあります。

個人的には4拍子にカノンコード進行ばかりが溢れていた邦楽から、様々な音楽のスタイルを知ることができた時代です。



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