学生運動の歴史をザッと紹介 /暴力革命の衰退

現在はネットで右翼だ左翼だと揶揄するのが流行っていますが、特に若い世代と中年から老年の人との政治意識のギャップが浮き彫りになりがちです。特に学生運動に身を投じ、現在は社会の要職に就いている方の意見と、若い世代のギャップが出てくることがあります。それを理解するには、学生運動の歴史を知っておくのも悪くないと思い、今回は私が知っている範囲でザッと紹介してみます。


※60年安保闘争

意外と古い学生運動の始まり

いつ頃から学生運動が始まったかは不明ですが、明治時代には始まっています。日本の将来を考えるのは、知識を身につけ未来を思い悩んだり議論する時間を持った学生だったのです。大人は今を生きるのに必死で、日本の将来を議論して1日を終えるなんて無理ですからね。

「若者」という言葉は割と最近になって生まれた言葉です。江戸時代には子供と大人はしかいませんでした。子供は一定の年齢になると、家計を助けるために働いたのです。しかし日本が裕福になり、大学に通う世代が出てくると、若さと野心と情熱を持ちながら発散させる場所がない世代が出てきます。仕事をするわけでもなく、大学でひたすら学ぶばかりの人達は若者と呼ばれ出し、若者特有の文化が生まれます。

※東京帝国大学 現在の東京大学

明治の頃の若者は、みな裕福でした。裕福でなければ大学に行くのが難しく、貧しい人は働いていたからです。貧しくても学生になる苦学生は、学校と仕事に忙殺され若者にはなれませんでした。しかし昭和になり戦後を迎えると中流階級も大学に行けるようになり、若者が爆発的に増えました。学生運動は、そんな若者が中心でした。

学生運動の闘士は格好良かった!

戦前の価値観を引きずる大人達が多い中、学生運動の闘士達は、新しい価値観を持っていました。大人達の多くは中学校か、よくて高卒がほとんどだった時代に、大学進学率10%の時代の大学生はエリートでした。

古い価値観をかざして威張る大人達に対し、頭が良く教養も豊かな大学生が共産主義という理想論を説いて戦うことを選んだのです。当時の大学の腐敗は警察も認めるほどの状態で、学生運動家は理想を掲げて腐敗と戦う闘士だったわけです。


※赤軍派の森恒夫(山岳ベース事件の主犯)

村上龍の自伝的小説「69」は、クラスのアイドル的な女の子がバリケード封鎖などを行う人が好きなんだと思い込んだ主人公が、学校をバリケード封鎖してしまう物語です。この物語で学生運動は、モテるための手段のように描かれていますが、学生運動家は格好良く見えたということだと思います。

全学連の時代と60年安保闘争

大学の民主化を求める動きは戦後すぐに始まり、全日本学生自治会総連合(全学連)が1948年に結成されます。全学連は日本共産党と歩調を合わせていましたが、日本共産党の路線変更に全学連が反発して、新左翼と呼ばれた共産主義者同盟(ブント)と呼ばれる一派が全学連を主導するようになりました。




全学連は60年の日米安全保障条約改定を巡る運動で、政府に徹底抗戦します。「安保反対」を叫びながらデモを繰り返し、機動隊や右翼団体と衝突を繰り返しながら抗議運動を展開し、ついに東大文学部の女子学生が死亡する事件が起こります。日米安全保障条約は改定され、全学連は敗北して学生運動は終焉を迎えます。

新左翼の時代

60年代中頃から、学生運動は再び再燃します。ベトナム戦争反対から広まった反戦運動を機に学園紛争が始まり、バラバラになった全学連が再起動します。新たに結集した共産主義者同盟(第二次ブント)に、革命的共産主義者同盟から分裂した中核派や革マル派などが全学連に存在し、ヘルメットにマスクをしてゲバ棒を持って機動隊と衝突を繰り返します。




羽田空港の建設阻止を目指した羽田闘争では、数百人の警官を負傷させますが学生側に死者も出ました。公然と暴力による革命を掲げる学生運動は、各派入り乱れての戦いになり、さらに他の派閥を襲う内ゲバも多発するようになります。

全共闘の時代

こうして各派による暴力闘争と内ゲバが続く中、その派閥の垣根を超えて共に運動を行う動きが東京大学から出てきました。全共闘と呼ばれるこの動きは、暴力を苦手とする学生たちが大学をバリケード封鎖するなどの手段で意思を表明し、一気に全国に波及していきます。


※火炎瓶で武装した全共闘

全共闘も暴力闘争を激化させ、デモを阻止する機動隊に火炎瓶を投げつけ、道路の石畳を割って投げつけるなど、過激になっていきます。日本大学内で16kgのコンクリートの塊を落とされて機動隊員が死亡するに至り、警察は強硬手段に出るようになります。さらに赤軍派がダイナマイトなどでテロ行為に走るようになると、警察は徹底抗戦の姿勢になっていきました。

先鋭化と内ゲバの激化

赤軍派から出てきた連合赤軍は、ダイナマイト闘争、猟銃店を襲撃して中武装を図るなど、活動を先鋭化させていきます。ついにはよど号ハイジャック事件を起こし、世間を震撼させました。学生と警察の戦いが、ついに一般市民が人質になったのです。もはや学生運動は大学を巡る権力との戦いを超えて、テロリズムになりました。


※福岡空港でよど号から解放される人質

さらに各派入り乱れての学生運動は、主導権争いに発展していきました。学生運動家同士の襲撃事件が頻発し殺し合いに発展すると、学生運動に一定の理解を示していた一般市民から厳しい声が出るようになります。連合赤軍が引き起こした山岳ベース事件では、身内のメンバー12人をリンチで殺害し、事件が明らかになると連合赤軍に批難が集まりました。


※あさま山荘事件

あさま山荘事件は、山岳ベース事件を起こしたメンバーが、警察の包囲網から長野県に逃げて起こした事件で、壁に打ち込まれる鉄球の映像は連合赤軍敗北の象徴のように映し出されました。ここに至って、もはや一般市民からの支持はなくなり、狂った若者凶行に世間は震撼するばかりになりました。こうして学生運動は衰退していきました。

なんのこっちゃ?と思う方もいるでしょう

理想を掲げて立ち上がった学生達が、暴力による解決を率先して選んだことは、現在の視点では理解しにくい部分です。さらに暴力がエスカレートし、「総括」という名の下に身内へのリンチが繰り返され、何人も死者を出すというのは、当時も理解し難かったようです。


※山岳ベース事件では妊娠中の女性もリンチされ殺害されました。

現在の視点では理解されにくい部分が多いため、全共闘世代を狂人のように言う人もいますが、彼らは大きな敗北感を背負って生きてきた昭和戦後史の生き証人とも言えます。学生運動と暴力の関係は、今回は掘り下げませんが、「世界同時革命」で理想世界を築くという壮大な想いに突き動かされた時代があったということです。

そして1つ付け加えるなら、暴力の味をしめるとインテリ層でも暴力に飲まれるということだと思います。暴力は暴力の連鎖を生んでいくのです。

まとめ

駆け足で学生運動の歴史を辿っていきました。警察にとって戦後最大の戦いが学生運動でした。その一方で、学生運動を腐敗した大学による学生の抗議として、甘く見ずに最初から徹底的に取り締まっていけばここまで大きな被害を生まなかったという声もあります。

彼らは彼らなりの正義を信じ、熱病にうかされたようにデモを行いました。若い人に、その世代を理解しろとは言いません。私も理解できない部分が多々あります。しかしそういう時代があり、今もその時代を懐かしむ世代がいるということを知ってみると、全学連世代が話すことの意味が少しだけ分かってくると思います。



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