日本最大野党 日本社会党の凋落

※この記事は2016年10月24日に、前のブログに書いた記事の転載です。

昭和が終わり平成になり、新しい時代が始まる予感に満ちた1989年、日本社民党(現在の社民党)は絶頂期にありました。長らく続いた自民党の一党支配を終わらせ、社会党が与党になる可能性が出てきたのです。



自民党は自爆に近い形で支持率を落としていました。竹下総理のリクルート事件に始まり、竹下氏退陣後の宇野総理の女性問題(芸者スキャンダル)での辞任があり、消費税導入の批判がありました。特に大型間接税を導入しないと断言していた中曽根氏が「消費税は中型間接税」と発言したことに、世間はあきれ返りました。

※芸者スキャンダルで辞任した宇野宗佑元総理

社会党の土井たか子党首は、自民党を鋭く批判し、力強い女性のリーダー像として存在感を発揮しました。土井氏の「やるっきゃない」という掛け声は流行語になり、自民党からは「女性がリーダーの国は滅びる」という暴言まで飛び出し、参議院選挙を迎えます。そして女性候補を大量に擁立した「マドンナ旋風」と呼ばれる社会現象を起こして社会党は大勝し、自民党を過半数割れに追い込みました。



さらに90年の衆議院選挙でも、政権獲得には至らないものの大幅に議席を増やしました。しかしマドンナ旋風はミーハー的な人気であり、女性の時代だとして土井氏が送り込んだ女性候補者の多くは政治の素人だとわかってきます。さらに自衛隊のイラク派遣に反対するものの、具体性のない主張と対案のなさが失望感を生みました。社会党のブームは、わずか数年で終わりを告げました。

93年に自民党の小沢一郎氏が羽田派を率いて離党というクーデターを起こすと、社会党もこれに融合して、非自民の内閣誕生の一角を担いました。しかし誕生した細川政権は立往生し、短命の内閣になります。その後の羽田内閣も短命に終わり、自民党が息を吹き返しました。自民党は社会党委員長の村山富市氏を総理にする条件で、自民党との連立を呼びかけたのです。

※村山富市氏は自民党と組んで総理になりました。

このニュースが報じられたとき、いくらなんでも反自民の社会党は引き受けないだろうと思われましたが、社会党は合流を決めて村山内閣が誕生しました。社会党の悲願が達成されたのですが、与党になれるなら誰とでも仲良くする八方美人的な態度に批判が集まります。さらに国会で村山総理は「自衛隊は合憲」と発言して、これまでの党の主張をひっくり返し、支持団体からの反発を招きました。

そして神戸震災が起こります。テレビの取材で村山総理は、自宅でNHKのニュースを見て震災を知ったと発言して危機管理の甘さを批判されます。さらに同年の地下鉄サリン事件、警察庁長官狙撃事件では十分なリーダーシップを発揮していないと批判されました。支持率の低下により退陣し、その後は自民党の橋本龍太郎氏に政権が引き継がれると、社会党の存在感は全くなくなってしまいました。

※神戸震災の発生をNHKのニュースで知ったと答えた村山総理に批判が集まりました。

その後は選挙のたびに議席を減らし、名前を社民党に変えても何も変わらず、今に至ります。

個人的には、小沢氏のクーデターから村山政権の終わりまでのダイナミックな政変は、政治はこんなに面白いのかと感じるに十分で、政治に強い興味を持たせてくれました。そして社会党の凋落は、政治運営のダメな部分をこれでもかと教えてくれました。

ですから、その主張には賛成しないものの社民党は今でもきになる存在です。もはや役目がなくなったとも言われますが、今後も社民党の動向を見ていきたいと思っています。そして社民党の凋落は、まるである政党の未来を見ているような気がするんですよね。その意味でも学ぶことが多いと思います。


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