対話が武力行使より危険なこともある /歴史を学ぶ重要性

日本はアメリカらとともに、北朝鮮への圧力を強めることで合意しています。それに対して、過度に北朝鮮を刺激するのではなく、対話をするべきだという声もあります。もちろんそれもそうなのですが、安易な対話はとても危険だということが歴史を知れば見えてきます。



ナチスドイツと宥和政策

1935年、ナチスドイツは第一次世界大戦の後始末を決めたベルサイユ条約を一方的に破棄すると宣言して、徴兵制の復活と再軍備を始めました。さらに非武装地帯に軍隊を派遣し、オーストリアを併合して、戦後の国際条約をことごとく無視しました。

※オーストリア併合を喜ぶ女性たち

国際的批判がドイツに集まる中、ナチスドイツは戦前のドイツの領土だったチェコスロバキアの一部の返還を求め、変換されなけれは戦争もありうることを伺わせていました。1938年、この問題を解決するため、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの首脳がドイツのミュンヘンに集まりました。

※ミュンヘン会談
当時のヨーロッパでは、あまりにも多くの犠牲者を出した第一次世界大戦の教訓から、「あらゆる戦争に無条件に反対する」というスローガンを掲げた平和主義が高まっていました。悲惨な戦争を繰り返したくないという強い想いが国民の間にあり、イギリス首相のチェンバレンは「平和主義のため」として、ドイツの要求を承諾し、国民から喝采を浴びました。チェンバレンは平和主義のシンボルになります。

※ネヴィル・チェンバレン英首相

かつての占領地を取り返したナチスドイツは、チェコスロバキアに介入し、国を解体してドイツと同盟国のハンガリーに編入させ、チェンバレンとの約束を反故にしました。時間が稼げたナチスドイツは軍隊を強化して、ポーランドに侵攻を開始します。

今日では、この宥和政策には様々な見解がありますが、盲目的な平和主義が戦争を招いた例として扱われています。当時のナチスは戦力を整えておらず、ドイツ軍はミュンヘン会議の行方に戦々恐々としていたといいます。もしチェンバレンが武力行使を決断していれば、ユダヤ人の大量虐殺も第二次世界大戦も起こらなかったと言う人も多くいます。

このチェンバレンの宥和政策に激怒し、猛烈に反対したウインストン・チャーチルは戦争狂として激しい批判を浴びますが、ドイツの猛攻の前に絶望的なほど劣勢に立たされたイギリスを救ったのはチャーチルでした。

※ウインストン・チャーチル

北朝鮮と核開発疑惑

1992年、アメリカの偵察衛星の写真から、北朝鮮の核開発疑惑が浮上します。北朝鮮は国際原子力機関(IAEA)の査察を拒否して緊張が走ります。

北朝鮮は核不拡散防止条約(NPT)からの脱退をちらつかせ、アメリカを交渉のテーブルにつかせようとします。クリントン大統領は強硬な姿勢を崩しませんでしたが、元大統領のジミー・カーター氏が北朝鮮に入り、金日成と直接対話を実現して軍事衝突が回避されました。



この結果、米朝枠組み合意が結ばれ、北朝鮮はNPTに留まり核開発施設を発電用の軽水炉に転換することで合意し、アメリカは毎年50万トンの重油を北朝鮮に供与することに決まりました。これに合わせて、日本も経済支援を決めています。

アメリカの元国務長官ヘンリー・キッシンジャーは、ペナルティを実施する前にご褒美を渡せば約束は反故にされると日米政府の対応を厳しく批判していました。その言葉通り、重油とお金をもらった北朝鮮は核開発を継続し、2003年にはNPTを脱退して、今日の危機に繋がっています。

※キッシンジャー博士

平和主義と対話

これらの歴史が示すように、対話が必ずしも良い結果を生むとは限らず、時には最悪の結果をもたらすこともあります。もちろん対話は重要ですし、平和主義が悪いわけでもありません。大事なのは、平和主義こそ絶対の正義、対話こそ最良の手段と決めつけて、他の選択肢を手放してしまうことです。

国家が抱える問題は、国民の生命と財産を危険に晒します。あらゆる可能性を探り、その中から最良の手段を見つける作業が必要で、最初から「これしかない」と決めつける方がはるかに危険なのです。その意味で、現在の気運に危うさを感じます。戦争が起こらない方が良いに決まっていますし、話し合いで決着するならそれが良いに決まっています。問題なのは盲目的になって、他の手段を捨ててしまうことではないでしょうか。


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