なぜ「はじめの一歩」は現役ボクサーを虜にしたのか

もはや迷走をしていると言われているマンガ「はじめの一歩」は、かつては現役ボクサーからの人気が高い本格派のボクシングマンガと言われていました。なぜこのマンガがボクサーの心を捉え、そして「来週まで待ちきれない」と多くの読者を興奮させたのかを考えてみたいと思います。

関連記事:はじめの一歩のボクシング技は本当に存在するのか?




物語の概略

幼くして父を失い、母親が経営する釣り船屋の手伝いをしながら育った幕之内一歩は、高校ではいじめられっ子でした。しかし鴨川ジムのボクサー鷹村守との出会いから鴨川ジムに入門し、プロボクサーの道を歩み始めます。

一歩が日本タイトルを獲るまでは、一歩のセリフ「強いって、一体どんな気持ちですか?」に表されるように、強さとは何かが一貫したテーマとして扱われています。そして日本王者になってからは、周囲から強いと認められた一歩の、さらなる強さへの希求と葛藤が描かれています。



現実のボクシングに主人公を置いた

東日本新人王からA級ボクサー賞金トーナメントと、新人ボクサーがたどる過程を現実と同様に描きました。さらに主人公の一歩の心情だけでなく、対戦相手の心情も細かく描くことで、勝者が総取りすると言われているボクシングの過酷な現実も表現しています。

また当初は、一歩の武器は筋力とパンチ力だけでした。それをいかにして勝利に繋げるか、そのためにどんなトレーニングが必要なのかといった、過程も描かれています。明らかに実力が上回る相手に、いかにして戦うかが初期の「はじめの一歩」の面白さでもありました。



技術論の多さ

途中から本作のファンだという辰吉丈一郎が、技術的なアドバイスを送っています。そのため、本格的なボクシングの技術論が展開され、ボクシングが単なる野生の殴り合いではなく、知的な戦略ゲームでもあることを伝えました。そして時にその理論を精神力や野生が上回ること、反対に野生が理論の前に封じ込められることを描き分けてきました。いずれにしても、ボクシングの難しさや奥深さの片鱗を感じることができます。

少年マンガらしくパンチに名前がついていて、必殺技のように呼ばれているのですが、荒唐無稽なものは少なく、またその名前も実際に使われていた名称が用いられています。「デンプシー・ロール」や「ヒットマン・スタイル」などがそれで、現実のパンチとは異なることもありますが、現実離れし過ぎないようになっていました。



もちろん全ての理論が現実的なものではなく、中にはマンガらしい荒唐無稽さを含むこともあります。しかし中には辰吉丈一郎が作者に説明した、ボクシングの理論が含まれていることも事実なのです。


スポットライトの外の人々

本作には、鷹村守や宮田一郎などのスターボクサーが登場します。常にスポットライトを浴び続け、新聞の紙面を飾るような選手です。しかし同時にスターにはなれない選手たちも丁寧に描かれています。

鴨川ジムの青木と木村は、ベテランの域に達しながらも日本タイトルに手が届かない選手です。2人はお笑い要員として登場するだけでなく、それぞれの過去を絡めつつ負けてもなおボクシングを諦めきれない姿が描かれました。木村が日本タイトルに初挑戦した間柴戦を本作のベストバウトに推す読者も多く、ただの脇役に収まっていません。

※王座獲得に失敗した木村

ボクサーの大多数は、青木や木村のようなボクサーです。タイトルに手が届かないと思いつつも、諦めることができない2人の姿は、スターボクサー以上にボクシングの魔力を表しています。

ボクサーの心情

作者が熱狂的なボクシング・ファンであり(なにせボクシング・ジムの経営まで始めた)、多くのボクサーから話を聞いているので、それが多く反映されています。後楽園ホールの廊下の孤独と恐怖や、勝利の喜び、飢えと怒り、そして家族の苦悩など、実に様々な心情が描かれています。

伊達英二が世界戦でアゴと肋骨を折られ、右の拳も砕けて棄権も考える中、本当はもうやめてと言いたかったのに「もう少しよ、あと3ラウンドじゃない。私達最後まで見ている」とエールを送るしかなかった妻の心境など、複雑で細やかな心情は他ではそうそう見られるものではないと思います。

※伊達英二の戦う理由だった妻の愛子

余韻の使い方が抜群に上手い

ボクサーを虜にした理由ではないですが、多くの読者が引き込まれた理由の一つに試合後の余韻の使い方が上手かったと思います。日本チャンピオン千堂武士は、一歩に王座を奪われて通算0勝2敗になります。その彼が過去の負けキャラに降格することなく物語に絡んでも違和感がないのは、日本タイトル戦の余韻にあったからでしょう。

※浪速の虎と呼ばれる千堂武士

試合は作者が「最終回のつもりで描いた」と語る通り、過去最大の熱量が込められていて、互いを認め合う両者が正面から打ち合うスリリングな展開に、読み終わるとお腹一杯になるボリュームでした。その負けた千堂が大阪の家に帰ると祖母に「ばあちゃんな、ワイ、まだ弱かったわ」と語り、祖母が息子夫婦の遺影に向かって「あんたらの子は、1つ強うなって帰ってきたよ」と語りかけます。死闘の後のこの静かな場面で、千堂は必ず帰ってくると確信した読者は多かったのではないでしょうか。

ハンマー・ナオ戦でも一歩が見えないところで「ありがとうございました」と深々と頭を下げる姿など、印象的な余韻をいくつも残しています。

まとめ

一般の読者だけでなくボクサーも虜にしたのは、作者のボクサーへのリスペクトが強く作品に反映されているからでしょう。ボクシングを単に面白い物語の題材というだけでなく、ボクシングの面白さ、過酷さ、興奮と喜びなどを赤裸々に描こうと挑戦し、ボクサーとその関係者に最大限の愛情とリスペクトを注いでいました。

こうして愛された作品が、引き延ばしに継ぐ引き延ばしで迷走しているのは悲しいかぎりです。



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