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インデラミルズ /最強のインナーと言われるサーマルシャツ

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以前、ヒートテックは使い方によっては体を冷やすという話を書きました。汗をかく環境とかかない環境では素材が変わり、用途によって選ぶ必要があります。では汗をかく環境でもかかない環境でも、それなりに使えるらものはないかというと、なくはないのです。もちろん大汗をかくような登山やスポーツなどには厳しいですが、汗っかきの方が普段使いにする程度なら インデラミルズ のサーマルです。 関連記事 まだヒートテックが暖かいと信じている人へ サーマル生地とは 生地にハニカムとかワッフルと呼ばれるデコボコの模様があるのが特徴です。この凸凹により生地と肌の間に空気層を作り、保温することができます。元々は極寒地で軍隊用の下着として発展していきました。特徴的な生地表面の凸凹は形状によってハニカムとワッフルがあります。ハニカムは六角形の模様になっており、ワッフルは四角形の模様です。形状が違うだけで性能が違うということはなさそうですが、ハニカムで作られた生地の方が厚手のものが多いように思います。 ※インデラミルズのワッフル生地 そういった模様の違いはともかく、凸凹によって伸縮性が高まるうえに隙間ができて保温性が高まるので、暖かい生地として軍隊では長い間使用されていました。ちなみに現在の米軍は難燃性の下着を支給していて、その生地は日本のテイジンのものです。自衛隊の方々は自前のヒートテックが多いそうで、ここに大きな差を感じてしまいます。話を元に戻すと、サーマル生地は寒暖差が激しい時に効果を発揮すると言われています。そのため寒い冬だけでなく、温度変化が激しい春や秋にこそ本領を発揮するといえるでしょう。 インデラミルズとは 1914年にノースカロライナに設立された会社です。当初は保温性のある女性用下着が中心で、ウールニットのスリップを生産していました。この下着で成功すると、1920年代には女性用の水着を生産しています。その後も女性用の下着やランジェリーの生産を続けて会社が大きくなっていき、子供用の寝間着にも進出しました。そして80年代にサーマル生地を使った防寒下着の製造を開始します。現在ではサーマル生地の生産においては世界第3位、アメリカ最大のメーカーになっています。 ※ビニールパックで売られています。 製品紹介 サーマル アンダーTシャツ...

Sinn(ジン) /質実剛健さが残るドイツの時計

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あまり知られていませんが、ドイツには多くの時計メーカーがあり、スイスとは一味違う質実剛健なつくりで人気を集めています。スイスとは全く異なる歴史背景を持つドイツの時計は、今でも時計を宝飾品ではなく工業製品とみなしていて、愚直な厳格さを守り続けています。今回はそんなドイツ時計メーカーの中で、新興ブランドの SINN(ジン) を取り上げたいと思います。 関連記事 機械式時計は一生モノじゃないと主張する時計屋さんの話 腕時計は社会人のマナーというのは本当か 波乱のドイツ時計の歴史 ドイツ時計、特に腕時計に関しては、天才時計技師のアドルフ・ランゲと、ランゲの元で時計づくりを学んだユーゴ・ミュラーが大きく歴史に関わりました。その才能を認められていたランゲは、王族お抱えの時計技師の道を断ると、グラスヒュッテという街に時計製造会社の設立を申請しました。申請をシブる政府に、ランゲは貧困地区に雇用を創出したいと訴えていました。1843年のことです。 ※アドルフ・ランゲ 1845年、政府を説き伏せてランゲは会社を設立しました。A.ランゲ・ドレスデンという会社で、現在の A.ランゲ&ゾーネ になります。ランゲは15名の若者を雇うと時計製造の技術を教え込み、一人前になると独立させました。こうしてわずかな期間でグラスヒュッテは、高性能な時計の産地として有名になります。しかしこの頃から、安価なスイス製時計がヨーロッパを席巻し始めます。 グラスヒュッテにも安価な時計を大量生産しようという機運が生まれますが、成功しませんでした。そもそも雇用創出のために始めた時計産業なのですから、雇用を削減する機械化には消極的だったのです。しかしランゲから学んだユーゴ・ミュラーは、1918年にスイスから最新の設備を持ち込むと、近代化を図ることでヨーロッパ市場でスイスに負けない競争力をつけようとしました。ドイツ政府もこれに呼応しますが、すぐに第一次世界大戦が勃発し、ミュラーの時計会社にも影響が出始めます。 ※グラスヒュッテ さらに敗戦後のハイパーインフレは、ミュラーの会社を破綻に追い込みました。経営破綻をしたものの、ドイツ政府はこの会社の可能性を感じており、中央銀行が主導して時計製造会社とムーブメント製造会社に分離して、存続させました。ドイツ政府はスイス...

モザイクは顔を隠さない /テレビで起こった身近な騒動

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90年代の後半、私がまだ独身で狭いアパートで暮らしていた頃の話です。テレビのモザイクは全く役に立たないことがわかる出来事がありました。仕事で疲れて家に帰り、なんとなくテレビをつけたら知っている顔が映っていたのです。それは某テレビ局の人気バラエティ番組でした。 その番組は・・・ 後に心肺停止で倒れるお笑いタレントと、放送禁止の四文字熟語を言ってテレビから干されたことのあるバラドルの女性タレントがMCをつとめる番組です。92年から98年にかけて日曜日の夜10時半から放送されていました。番組の目玉はアポなしのロケで、有名人に何のアポもとらずに突然伺って無理なお願いをするのが人気のコーナーでした。 歩きタバコをしている人のタバコを消す企画 心肺停止のお笑いタレントさんが水鉄砲を持って街に出かけ、歩きタバコをしている人のタバコに水をかけるということをやっていました。水を掛けられて怒る人が続出していて、必死にお笑いタレントさんが謝りながら番組の企画を説明する流れです。この番組では、このような企画が多くありました。水を掛けられる人の顔にはモザイクがかかり、声も変えられています。 その中で、歩きタバコをしているギャルが登場しました。金髪に染めた髪、短すぎるミニスカート、高すぎるヒールでけだるそうにタバコを吸いながら歩いています。それまでほとんどテレビを見ていませんでしたが、私はこの場面でテレビにくぎ付けになりました。ギャルは水を掛けられて、激しく罵っています。お笑いタレントさんは必死に謝っていますが、ギャルは汚い言葉で文句を言い続けています。モザイクの顔がアップになりますが、顔は全くわかりません。 しかし私は確信しました。これは近所に住む20代前半の女性Sです。髪型も服もいつもと全く違いますが、どう見てもSにしか見えません。私は電話をとると、彼女のポケベルを鳴らしました。当時は携帯を持っている人の方が少数で、ほとんどの人がポケベルだったのです。しかしいつもならすぐに掛かってくるのに、いつまで経っても連絡はありませんでした。そして翌日に「ごめんねー」といつもの調子で電話がかかってきました。 Sという女性 始めて会った時から、とてもきれいな顔をしていると思ったのですが、子役タレントを経験していました。十代の半ばまでタレント活動を続...

暴動 /名作アルバム紹介07

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ファンクの大ヒットメーカー、 スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン の代表作を1つ挙げるとなると、この「暴動」か「スタンド」で悩みます。ファンクミュージックを聴いたことがない人、初めてスライの音楽を聴く人に勧めるなら、間違いなく「スタンド」なのですが、後の影響も考えると「暴動」の方が名作ではないかと思って選びました。 関連記事 ベガーズバンケット /名作アルバム紹介01 狂気 /名作アルバム紹介02 クリームの素晴らしき世界 /名作アルバム紹介03 テキサス・ハリケーン /名作アルバム紹介04 ライブ・アット・リーズ /名作アルバム紹介05  マジック・サム・ライブ /名作アルバム紹介06 スライ&ザ・ファミリーストーンとは スライ・ストーンは1943年に、5人兄弟の第二子としてテキサス州に生まれます。やがて家族がカリフォルニアに移住すると、弟のフレディや妹のローズやヴェッタとともにコーラスグループを結成しています。両親がミュージシャンだったこともあり、スライ・ストーンの家族は音楽活動を継続的に行なっていきます。さらにスライ・ストーンが高校でトランペッターになるシンシア・ロビンソンに出会い、バンドを結成しています。 その後、スライ・ストーンはラジオ局で働きながらレコーディング・プロデューサーを始め、本格的な音楽活動を開始しました。やがてスライはシンシアらとスライ&ザ・ストナーズというバンドを結成しますが、その頃弟のフレディは白人のグレッグ・エリコらとフレディ&ザ・ストーン・ソウルズというバンドを結成していました。この2つのバンドが合流し、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが結成されました。スライ・ストーンを中心としたファンクバンドで、7人編成の黒人と白人の混成バンドでした。 67年にデビューすると、68年にリリースしたセカンドアルバム「ダンス・トゥー・ザ・ミュージック」が大ヒットし、さらに69年にリリースした「スタンド」は300万枚以上のモンスターヒットになりました。その年には野外音楽フェスティバル「ウッドストック」に出演し、その人気は絶頂を迎えます。 71年に「暴動」を発表してファンクに衝撃を与えますが、バンドは空中分解していき、メンバーの交代をはさみながら、細々と音楽活動を継続していきました。 フ...

忘れてはならない中村俊輔の足跡 /グラスゴーの英雄になった日本人

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腰を痛めて動けなかった冬休みに、久しぶりに英語を練習したくて、海外のスカイプのグループにアクセスしてみました。そこは日本のアニメを中心に語っているので、日本人の私が参加すると大勢が話しかけてくれるのです。すると新参のスコットランド人がいて、アニメそっちのけで彼と中村俊輔の話題で盛り上がりました。「ナカムラは俺たちの永遠のヒーローだ」「もし日本にいるナカムラの身になにかあれば、スコットランドはいつでも立ち上がる」と、興奮して語ってくれました。 関連記事 サッカー日本代表の歴史と事件簿 希望が消えたサッカー日本代表 /転換期を迎える日本 オールド・トラッフォードの歓喜 1-2とセルティックが負けている場面で、フリーキックのチャンスがやってきました。マンチェスター・ユナイテッドの守護神ファン・デル・サールはヨーロッパ最高のGKの1人で、その彼が細かく壁の位置を指示していきます。フリーキックになれば中村俊輔が蹴ることも、彼が左利きであることもファン・デル・サールは知っていました。だから壁を左側に寄せて、中村俊輔の蹴る方向に慎重に壁を築きました。 ※エトヴィン・ファン・デル・サール ボールをセットした中村俊輔は、あまり時間をかけることなく動き出しました。まるで普段通りなんら気負いのない動きでした。中村俊輔の左足から放たれたボールは低い軌道のまま強烈に右に曲がり、凄まじいスピードで壁のギリギリ上を通過しました。 ファン・デル・サールの視界には、突然現れたボールが急激に曲がりながらゴールの左隅に吸い込まれていくように見えたでしょう。ヨーロッパ最高のGKは一歩も動けず、ネットに突き刺さるボールを眺めることしかできませんでした。中村俊輔の芸術的なフリーキックがオールド・トラッフォードというキャンバスに描かれた瞬間でした。 セルティックのサポーターは感情を爆発させ、両拳を挙げて叫びました。凄まじい歓声が上がり、サポーター同士で抱き合い、まるで優勝したかのような喜びを表現しました。スコアは2-2になっただけで、この試合の勝利すらまだわかりません。しかし憎き専制君主に一太刀浴びせたという事実、それが芸術的で文句のつけようがない完璧なシュートだったということが、セルティックサポーターを極限まで興奮させました。 この一発で、中村俊輔は...