日本テニス協会が変わった日 /改革の英断と次の飛躍へ

世界ランキング4位という輝かしい実績を残した伊達公子は、引退と同時に子供テニススクールの重要性を痛感していました。海外の強豪のほとんどは、幼年期に才能を見出されて英才教育を受けています。日本では子供がテニスに触れる機会が少なく、才能を発掘する場がありません。「カモン・キッズテニス」は、伊達にとって日本テニスの未来を見据えた重要な企画でした。しかし日本テニス協会は、協力を求める伊達にあっさりとノーを突きつけました。


※日本テニス協会名誉会長の眞子内親王

日本テニス協会の役割

1922年に「日本庭球協会」として発足したテニス協会は、日本のテニス大会を統括してきました。テニスが貴族のスポーツだったことから、皇室関係者にもテニスに熱心な方が多く、日本テニス協会と古くから親交がありました。


※ウインブルドンでベスト4に入った日本人、清水善造

伊達の子供向けテニス教室の提案を聞いたある役員は、伊達にこう言い放ったといいます。我々の仕事は宮家の方々のお相手であり、子供に教えることではない。伊達は深く失望し、単独でスポンサーを募りながら全国を回って小学生以下の子供を中心にテニスを教えて全国を巡ります。

テニスブームの終焉

1990年代前半は、テニスブームともいえる状態でした。チケットが売り切れる大会が多くあり、会場はファンの熱気で覆われていました。しかし伊達公子や松岡修造といった人気選手が引退すると、ファンの足は急速に遠のいていきました。


※96年ウインブルドン準決勝に挑む伊達とグラフ
※ウインブルドンベスト8に進出した松岡修造

特に男子は深刻でした。女子は伊達公子に続いて杉山愛や遠藤愛(まな)などが台頭してきていましたが、男子は松岡修造に続く選手が現れていませんでした。日本テニス協会は、テニスブームが起こったのではなく、松岡や伊達などワールドクラスで戦う選手のブームだったと痛感します。かつて数万人が炎天下の中で熱狂した東レ・パンパシフィックオープン、伊達がグラフを下して会場が破裂せんばかりの興奮に満ちたフェド杯でも、閑古鳥が鳴く有様でした。

改革の決断

改革が難しいのは、改革によって利益を得る人が見えにくいのに対し、不利益を被る人はハッキリしていることです。ワールドクラスの選手を育てるための改革を始めるとなると、伊達に宮家のお相手だけしてればいいと言い放つような役員の居場所は無くなります。しかし誰が得をするのか、改革を始める時点ではわかりません。だから改革は常に抵抗にあいますし、邪魔をする身内が現れます。

日本テニス協会内部で、どんな話があったのかは不明ですが、会長職を盛田正明氏に託すことが発表されました。テニス経験がなく、ビジネス畑の門外漢である盛田氏に、テニス協会は舵取りを任せたのです。これは大英断でした。盛田氏自身も、会長職の打診があった時には驚いたそうです。


※盛田正明氏(右)

ソニー創業者の盛田昭夫氏の弟であり、ベータマックスの開発やソニー・アメリカの会長、ソニー生命保険の会長を歴任した盛田正明氏が学生時代に打ち込んだのはバレーボールでした。

盛田正明氏とテニス

一方で盛田氏はテニスのファンでもありました。ジミー・コナーズやモニカ・セレシュと個人的な親交があり、時間が許せばテニス大会を観戦しています。アメリカのテニス界ではちょっとした顔であり、熱心なファンとして知られていました。


※四大大会を通算8度制したジミー・コナーズ

ソニー生命時代には「ソニーライフ・カップ」を打ち上げ、アメリカと日本のプロ対抗戦を実現しました。生粋のテニスファンであり、経営のプロである盛田氏の手腕に日本テニス協会は、命運を託したわけです。

盛田正明氏の改革

国内の大会を改めて視察した盛田氏は、閑古鳥が鳴く会場に落胆します。欧米のテニス大会は家族連れか集い、朝からワクワクした空気に包まれているそうで、大会運営を根本から考える必要を感じました。さらにテニスが大好きなひとの意見だけを取り入れると、テニス村の内輪の盛り上がりに偏ると思い、サッカーの三浦知良氏など、テニス界以外の人の意見を募ります。

そして最大の問題は若手の育成です。世界のトッププロは、幼少時代から英才教育を受けています。なるべく早く才能を見つけ、良質な環境で才能を開花させる必要があります。盛田氏は旧知のIMGアカデミーに、日本の才能ある選手を留学させることを検討します。




IMGアカデミーは、アンドレ・アガシやマリア・シャラポワを輩出したことで有名な、アメリカの名門アカデミーです。海外留学となると、親としては心配も多いので高校生を選抜して留学させることを検討しましたが、「それでは、あまりに遅すぎる」とアカデミー側から言われ、中学生の留学を中心に計画しました。



2003年、盛田氏は私財を基金にしてファンドを立ち上げ、盛田テニスファンドと名付けました。留学する際に、盛田ファンドの選手と名乗るのではなく、それまで所属していたテニスクラブを名乗るように盛田氏が勧めたため、盛田ファンドの知名度は低いままでした。盛田氏は自身のファンドが有名になるよりも、選手が飛躍した時に全国のクラブの指導者が自信を深めるように、元のクラブ名を名乗らせたのです。

錦織圭の躍進

盛田氏がテニス協会会長に就任した時に、テニスの素人に運営を託す危うさを指摘する声もありました。また盛田・テニス・ファンドも、素晴らしいこととしながらも長続きするのか不安視する声もありました。



しかし盛田ファンドによって留学した錦織圭の躍進によって、そんな声は一掃されました。盛田氏の先見性と、私財を投じてまで選手育成に掛けた情熱は絶賛され、国際的な評価が高まりました。盛田氏は自分が有名になっても仕方ないと、ご不満のようですが、盛田ファンドの留学を希望する選手は一気に増えました。

さらなる改革へ

2018年、日本テニス協会は、コーチの海外輸出を推進すると発表しました。優れた選手を輩出するには、国内に良いコーチがいることが重要です。日本はコーチの質は高いと自負しながら、国際的な潮流に遅れがちな面があり、それを解消するためにコーチに海外経験を積ませようというわけです。

錦織圭の活躍に湧いたテニス界は、決して安泰ではありません。男子は錦織圭に続く選手がなかなあ現れませんし、女子に至っては38歳でカムバックした伊達公子が、国内選手を総ナメにしてしまう衝撃に襲われました。勢いのある10代の選手が、オバちゃんのアンティークな技に翻弄される様子は、若手の自信を奪いかねない劇薬でした。これを超えなければ次の飛躍はないのです。日本のテニスが、今後どのような飛躍を遂げるか見守っていきたいと思います。


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